Monsieur Voice / Artist Nude

1999〜2017 携帯サイトARTIST NUDE "ムッシュ@Rock" より

【ア】


 

アラニス・モリセット

天才少女アラニス
衝撃のシンガーソングライター、アラニスのキャリアのスタートは80年代。地元カナダのTV番組のレギュラ-だった彼女は何と11歳にして自費でインディ・レーベルからシングルをリリース、17歳でダンス・ポップ路線の初めてのアルバム『Alanis』(1991)を発表、ジュノ賞(カナダのグラミ-賞)を獲得して一躍キッド・ポップ・スターの座に。しかしまだカナダ以外では全く無名の存在だった彼女は1994年、グレン・バラードと運命的に出会う。
【ムッシュから一言】
アラニスはエキセントリックさとポップスさのバランスの真ん中にいる。ということは!
いつの時代でもそれがポップスのニューカマーの条件なのです。
 
驚異の全米大ブレイク
ウィルソン・フィリップスをポップ・スターの座に押し上げた敏腕プロデューサー、グレンと共に作成した全米デビュー作『ジャギッド・リトル・ピル』(1995)はそのエキセントリックな詞と、ヒップホップ等の影響も伺わせる切れ味鋭いオルタナティヴなポップセンス溢れる曲が全米のFM局に絶大な支持を受け、アルバムは全米だけでも1600万枚の大ヒットになり、その年のグラミー賞最優秀アルバム賞獲得するなど、アラニスは一躍世界的ポップスターとなった。
【ムッシュから一言】
プロデューサーのグレン・バラードはプロデューサーの仕事としてあたりまえの青田刈りが、成功したんだと思います。
 
大ヒットの後の苦悩
大ヒットの後は誰しも悩むもの。再びグレンと共作した『サポ-ズド・フォーマー・インファチュエイション・ジャンキー』(1998)は内省さを深めながら音楽的な完成度を高めた意欲作だったが、前作ほどの大ヒットとはならなかった。しかしこれにより吹っ切れたかアラニスは映画『シティ・オブ・エンジェル』への佳曲「アンインヴァイテッド」の提供(1998)、MTVアンプラグドアルバムの発表(1999) などマイペースの創作活動を進めてきた。
【ムッシュから一言】
昔は一発屋歌手と言われたかもしれませんが、現在は一発屋プロデューサ-が次につなげて生き延びていくシリーズだと思います。
 
新たな創作の地平
2000年以降はブッシュ政権によるアラスカ油田開発反対、MP3関連のアーティスト権利擁護活動への参加、さらには2001年9月11 日のNY貿易センタ-ビルテロ事件に呼応して新曲「Utopia」をインターネット上でリリ-スするなど社会的活動が目立っていたが、いよいよ新作『Under Rug Swe pt』が2002年2月にリリース予定。4年ぶりの沈黙を破るオリジナル・アルバム発表に更に思索度の深まったアラニスの音世界が期待される。
【ムッシュから一言】
社会的な活動の裏にはメジャー・ブレ-クのタイミングとそのツールを探しているのだと思います。新作についてはたぶんすごく良いか最悪か。それで彼女は次に繋がるのです。表現者はいつもそんなもんです。

アニマルズ

イギリス最強のR&Bグループ登場
イギリスはニューキャッスルの旧友、エリック・バードンとアラン・プライスらは、ロンドンで再会し新たな仲間を加えてバンド「アニマルズ」を結成。R&Bサウンドを得意とした彼らはクラブシーンでたちまちセンセーションを巻き起こし、レコード契約を獲得する。
【ムッシュから一言】
イギリスのニュー・キャッスルという所はロンドンと同じくらいエキサイティングなバンドが登場するところだったらしい。アラン・プライスもエリック・バードンも僕の大好きなミュージシャンだ。とにかく僕にとって60年代初期のイギリスR&Bシーンはとっても大切なものです。
 
「朝日のあたる家」でブレイク、国際的な人気を得る
2枚目のシングル「朝日のあたる家」は本国イギリスだけでなくアメリカでも大ヒット、彼らは一躍「ブリティッシュ・ビート」の代表格として世界的な人気者となった。しかしプロデューサーに与えられるカバー曲のレコーディングに飽き足らなくなったエリックは契約を解消、活動の拠点をアメリカに移す。
【ムッシュから一言】
「朝日のあたる家」でブレイクして国際的な人気を得、日本にもツアーに来ました。その時、我々スパイダースがオープニング・アクトを務めたのです。あの時の彼らの白人R&Bは、僕の中にすごくスムーズに入ってきたのを覚えています。つまり、エリック・バードンはすごいシンガーなのです。
ちなみに、エリックと元フリーのポール・ロジャース、そしてマイケル・マクドナルドが僕の3大フェイバリット。彼らの声!大好きです。
 
エリック・バードンを中心にグループ再編
メンバーの交替を繰り返し、実質エリックのワンマンバンドとなったアニマルズは次第にサイケデリックな作風に移行、特にメンバーだったチャス・チャンドラーが手がけたジミ・ヘンドリックスには大きな衝撃を受け、彼らに対抗し得る「ニュー・アニマルズ」の編成を画策、バンドの精鋭化を図った。
【ムッシュから一言】
1960年代後半に入るとメンバーそれぞれが脱退というか離脱というか、何故かアニマルズ解散というニュースは聞いた覚えがありません。1996年に亡くなったベースのチャス・チャンドラーは、ジミ・ヘンドリックスを売り出したり、70年代の「スレイド」を売り出したりと、すごいプロデューサー&マネージャーだった。ギターのアンディ・サマーズはその後「ポリス」のメンバーとして注目を集めた。そういえば、エリックを70年代にアメリカ西海岸L.Aのウィスキー・ア・ゴー・ゴーで観たことがあるんだけど、当時彼は黒人バンド「ウォー」とプレイしていたっけ。それまで彼が目指していた音楽に、見事に到達したんだ!と思ったものだったけど・・・。
 
「サマー・オブ・ラブ」を経てグループは終焉へ
60年代後半、アメリカで盛り上がった「フラワー・ムーブメント」に呼応し様々なロックフェスティヴァルに出演する一方、平和のメッセージを作品に託していたアニマルズは69年に解散。エリックは独立し、ソロ活動を始めた。70年代後半以降アニマルズは数年おきに復活、音楽ファンを喜ばせている。
【ムッシュから一言】
最近エリック・バードン抜きのアニマルズが来日したりとか聞くのですが、とても残念です。チャスは無理だけど、せめてエリック・バードンとアラン・プライスとアンディ・サマーズ、そしてモッズのヒーロー、ズート・マネーあたりの顔触れで来日して欲しいものです。

アレサ・フランクリン

「教会の天才少女」レコードデビュー
高名なゴスペルシンガ-を父に持つアレサ・フランクリンがプロのシンガ-としてデビューしたのは1956年のこと。60年代に入るとゴスペルからポップスに転じ、多くの作品を発表したが、彼女の才能を理解する制作陣に恵まれず、最初の10年間は期待された成功を収めることが出来なかった。
【ムッシュから一言】
僕自身、60年代の初頭はあまりR&Bを聞く機会がなくって。でも当然、アレサの存在は知っていました。
オーティス・レディングとかのR&Bを聞くようになって改めて、アレサ・フランクリンを聞いた覚えがありますね。
 
「ソウルの貴婦人」誕生
1967年にレコード会社を移籍し発表した「貴方だけを愛して」では、彼女の作品に再びゴスペルのフィーリングを甦らせることに成功。黒人や女性の人権意識が高まる中、彼女は歌の世界を越え時代を象徴する存在に成長。ポップチャートでもナンバー1を記録するなど、R&Bシーンの代表的な存在となる。
【ムッシュから一言】
彼女を意識しだしたのは、アトランティックに移籍した頃からかなぁ。レコード会社によって売上が違うという典型的な例だよね。でも別格という感じは変わらなかった。彼女の曲は独特の雰囲気があったよね。でもスタンダードなR&Bって感じ!
 
「ソウルの女王」として君臨
60年代後半から70年代前半にかけて大ヒット曲を連発した彼女は、もはやR&B界で比肩する者がないほどの存在感を誇るまでになった。私生活のゴタゴタはあったものの、ディスコ・サウンドによってシーンが一変する70年代後半まで、コンスタントな活動は続く。
【ムッシュから一言】
時代もあったけど僕は「リスペクト」が好きですね。スティ-リー・ダンが賞賛していたのは知らなかったな。あとローリン・ヒルが彼女に贈った曲も聞いたことなかった。人権運動とかの意味をもって歌った訳じゃないのに「リスペクト」がそんな風にとらえられたのも、彼女に人気があった証拠だね。
 
「A Rose Is Still A Rose」
一時の低迷はあったが、80年代に入ると彼女は新しい世代のプロデューサーを起用し再びヒットチャートに復活。以降90年代まで数年おきにアルバムを発表し続け、そこから生まれたシングル曲はいずれもヒットを記録。現在も音楽界の別格的存在として活躍を続けている。
【ムッシュから一言】
時代、時代でプロデュ-サ-なんかも変えて。当然なんだけどその時代の空気なんかを曲や詞に反映させて、ある意味カリスマ的な位置にいるよね。最近はあまり聞いていないけど、最近の日本のア-ティストも絶対聞いているだろうし、皆のお手本だね!

イエス

デビューそしてたちまちプログレ界に君臨
ポップ・サイケデリックの60年代からクリームらのブルース/R&Bロックやピンク・フロイドらのプログレ等にシーンがより複雑化した1968年にジョン・アンダーソン(vo)とクリス・スクワイヤ(b, vo)を中心に結成されたイエスはスティーヴ・ハウ(g)加入の3作目『サード・アルバム』(1971)で高度な演奏力と楽曲クオリティを強固なものとし、スーパー・キーボーディスト リック・ウェイクマンを迎え名作の誉れ高い次作『こわれもの』(1971)『危機』(1972)そして3枚組強力ライヴ盤『イエスソングス』(1973)を経て問題作『海洋地形学の物語』(1974)で人気とサウンドを確立した。
【ムッシュから一言】
1970年代の初めは僕もプログレを沢山聴いていました。例えば、エマーソン・レイク&パーマー、ジェスロ・タル、キング・クリムゾン等々。YESが僕の耳に聞こえてきたのは多分リック・ウェイクマンが加入してからだと思います。来日コンサートでは、スティーヴ・ハウがアコースティックギターをスタンドにセットしてエレクトリックギターとアコースティックギターをパート、パートで弾き移るというエンタテイメント・ヴィジュアルテクニックを初めて目にしました。1974年にはリック・ウェイクマンからパトリック・モラーツにキーボードが変わり、僕もYESから少しだけ"ヒキ"ました。
 
ソロワーク、活動再開、そしてアンダーソン脱退
キーボードにパトリック・モラーツを据えた『リレイヤー』(1974)の後2年半はソロ活動の時期。アンダーソンの『サンヒロウのオリアス』(1976)を始めスクワイヤ, ハウ, アラン・ホワイト(ドラム)らのソロ作が相次いで出された。1977年ウェイクマン復帰の『究極』はそれまで定番のロジャー・ディーンを外しヒプノシスがジャケ担当した意欲作で全英1位も記録、続く『トーマト』(1978)もセールス的には好調だったが全盛時の複雑で荘厳なサウンドから短くシンプルになったサウンドに不満を持ったアンダーソンとウェイクマンの重要メンバーが脱退というバンドの危機に。
【ムッシュから一言】
70年代の後半になるとメンバーのソロワークの活動が多くなり僕はますます"ヒキ"ます。そしてジョン・アンダーソンとリック・ウェイクマンが脱退して、まったく聴かなくなってしまいました。けれどもピピプノシスが担当した彼らのレコードジャケットだけは眺めていました。
 
バグルスによる復活、解散、そして蘇生
元バグルスのトレヴァー・ホーン(vo)、ジェフ・ダウンズ(kbd)で穴を埋め作られた『ドラマ』(1980)は今も一流プロデューサーの誉れ高いホーンの仕事で全盛期の音が蘇ったが、アンダーソン抜きのイエスということでツアーは不評、1981年4月に解散に追い込まれる。ダウンズやハウはスーパー・バンド、エイジアを結成しアメリカでヒットを放つ一方、スクワイヤとホワイトはトレヴァー・ラビン(g)とシネマを結成、それにアンダーソン、トニー・ケイがなだれ込む格好でイエスが蘇生。ホーンのプロデュースによる『90125』(1983)は何と全米No.1ヒット「ロンリー・ハート」を生み出す大ヒットに。
【ムッシュから一言】
1980年代、元バグルスのトレヴァー・ホーンのプロデュースした全米No.1ヒット「ロンリーハート」はよくFENラジオで聴く機会があり、はっきり言ってこれはYESじゃないと思ったものでした。
 
8人イエスの結晶とそれ以降
ポップ路線に反発したアンダーソンは再脱退、他のコアメンバー3人とアンダーソン・ブラッフォード・ウェイクマン・ハウ名義で『閃光』(1989)をリリースするが、1991年に全員が集合し『結晶』をリリース。大イエスが実現したかに見えたが、以降バンドは急速に失速、『トーク』(1994)『オープン・ユア・アイズ』(1997)そして『ラダー』(1999)などをリリースするが往年の切れと存在感はもはや見られず残念。最新作『マグニフィケイション』(2001)はバンド史上初のキーボードレスをシンフォニーで補っているがこれがイエスというには難がある内容で今後の行方が案じられる。
【ムッシュから一言】
12人の才人ミュージシャンが出たり入ったりかかわってなんと1960年代から今までひっぱって来たのはすごいと思いますし、ある種バンドのカガミかも?三世代あるいは四世代バンドになるかもしれないのでちょっとコワイです。

イーグルス

ウェストコースト・ロックの象徴誕生
70年代アメリカン・ロックを代表するバンドの一つ、イーグルス。名盤『ホテル・カリフォルニア』(1977)で全世界の音楽ファンの脳裏に鮮烈なイメージを焼き付けた彼らのスタートは70年代初頭のロサンゼルスだった。60年代末からLA音楽シーンで活躍していたドン・ヘンリー、グレン・フライ、バーニー・レドン、ランディ・マイズナーの4人が1971年リンダ・ロンシュタットのバックアップの仕事をきっかけにイーグルスを結成。後のゲフィン・レコードの創始者デヴィッド・ゲフィンとマネージャー契約、実力派の英国人プロデューサー、グリン・ジョンズを迎えてロンドンで録音したデビュー作『イーグルス・ファースト』(1972)で鮮烈にデビュー。当時売り出し中だったジャクソン・ブラウンとドン、グレンの共作によるデビュー曲「テイク・イット・イージー」が全米12位の大ヒットとなり、70年代ウェストコースト・ロックの象徴としてのスタートを切った。
【ムッシュから一言】
イーグルスはエゴのミュージシャンの集団ですから 僕はエーゴーズと呼んでいます。 エゴなアーティストほど昔からスゴイ人がいます。 僕自身カントリー出身なのでバーズ、バッファロースプリングフィールズ ポコとかずっと聞いていましたので当然イーグルスの音楽にも入り込んでいきまし た。
 
実力派バンドへの脱皮
西部の荒くれ男達をテーマにした『ならず者』(1973)を再びゴールド・レコードとしたイーグルスは3作目『オン・ザ・ボーダー』(1974)の制作にかかるが、よりハードなサウンドを指向するメンバーとプロデューサーのジョンズが対立した結果、新プロデューサー、ビル・シムジクを迎えてアルバムを完成。新ギタリスト、ドン・フェルダーを加えたこの作品からは初の全米No.1『ベスト・オブ・マイ・ラブ』が生まれた。続く『呪われた夜』(1975)ではそれまでと一変してハード・エッジなギターサウンドと、R&Bテイストの混沌としたロック・サウンドで大きくバンドとして脱皮。タイトル曲のNo.1を始め「偽りの瞳」(2位)、「テイク・イット・トゥ・ザ・リミット」(4位)とヒットを連発してそのシーンにおける地位を確固たるものにした。
【ムッシュから一言】
浜田省吾、稲垣潤一がドラマー出身のヴォーカルだとするとアメリカでは ザ・バンドのレヴォン・ヘルム、イーグルスのドン・ヘンリー! ドラムをプレイしながら歌うという事は変に力の入らない歌声なのです。 それが魅力です。
 
カリフォルニア・ゴシック表現者としての頂点を極める
1975年バンドの成長に伴いカントリー的サウンドを信条とするバーニーが脱退、代わりにファンキーなロック・ギタリスト、ジョー・ウォルシュを新メンバーとして迎えたイーグルスは、ベスト盤『グレイテスト・ヒッツ 1971-1975』(1976)を経て、70年代廃退するアメリカと失われたアメリカン・ドリームをゴシック風に表現した意欲作『ホテル・カリフォルニア』をリリース。リリースと同時にプラチナ・ディスクとなったこのアルバムは全世界で爆発的な売上を記録、その年のグラミー賞レコード・オブ・ザ・イヤーを獲得し、フェリーニ風の頽廃美を漂わせる歌詞のタイトル曲と「ニュー・キッド・イン・タウン」(当時人気のあったホール&オーツのことを歌ったとされる)は全米No.1を記録するなど、名実ともにイーグルスを代表する作品となった。しかし大ヒットと時を同じくしてランディが脱退、後任にはポコのティモシー・シュミットが迎えられた。
【ムッシュから一言】
「ホテル・カリフォルニア」はスゴイ出来だと思いました。 あの曲で多分イーグルスファンになりました。 でも僕の好きなスティーリーダンとかTOTOとやってる ティモシー・シュミットとかファンキーなジョー・ウォルシュとか バンジョー、マンドリンの上手なバニー・レドン、そしてドンヘンリーが 基本的に好きだったのでイーグルスのファンになったのだと思います。
 
解散、再結成そして「さよなら」
続く『ロング・ラン』(1979)もアルバム、シングル「ハートエイク・トゥナイト」共にNo.1となったが彼らはその後『イーグルス・ライヴ』(1980)を最後に1982年に解散発表。ドンとグレンはソロでも80年代を通じてヒットを飛ばしたが、1994年MTVのスペシャル企画という形で再結成、ツアーの後アルバム『ヘル・フリーゼズ・オーバー』(1996)をリリース、現役当時からのファンを喜ばせた。1998年にロックの殿堂入りを果たした際に再会したメンバーは1999年大晦日にLAでのライブを決行。その後何故か解雇されたドン・フェルダーを除く4人は自らのレーベルERCを設立、7年ぶりの新曲「ホール・イン・ザ・ワールド」を含むベスト盤『ベスト・コレクション』(2003)をリリース。今秋には9年ぶりの来日も決定、「さよならツアー」と銘打たれたツアーの後にはいよいよ8年ぶりの新作も期待される。
【ムッシュから一言】
イーグルスはこの21世紀にもまだまだストーンズとは 違った形で僕達に影響を与えてくれるバンドだと思います。 続けて欲しいですね。

イギー・ポップ

アンダーグラウンドの雄、ストゥージズ登場
70年代中期にアメリカではラモーンズ、UKではセックス・ピストルズによるパンク・ロックの登場から遡ること10年前に既に当時の音楽シーン、体制的な全てを否定するギター・スリー・コードのエッジーなロックで周りの度肝を抜いていたのがアメリカはシカゴ近郊のアン・アーバーで結成されたストゥージズ。
当時アンダーグラウンドのもう一つの雄だったNYのヴェルヴェット・アンダーグラウンドのジョン・ケイルのプロデュースによるデビュー作『イギー・ポップ&ストゥージズ』(1969)はその当時としては先進的でローでエッジーなサウンドで商業的には成功しなかったがアンダーグラウンドでは唯一無二の存在感を示したがそのバンドで異様な存在感を放っていたリードボーカルが、イギー・ストゥージことイギー・ポップだった。
【ムッシュから一言】
イギーストゥージを60年代の終わりに聞いたとき異様な存在感を放つ傷だらけの子供と出逢ったみたいだった。
しかし、それから10年してパンク・ロックが台頭してきて僕は少し大人になった。
 
バンド解散と療養生活とベルリンでの復活
続く『ファンハウス』(1970)リリース後イギーを含めメンバーがドラッグ中毒に陥ったストゥージズはレーベル契約も失って解散の危機に瀕したが、イギーは当時ジギー・スターダストで人気の絶頂だったデヴィッド・ボウイの支援を受け『ロー・パワー』(1973)を発表。しかし批評家筋からは評価されたこの作品を最後にストゥージズは解散。ヘロイン中毒に悩むイギーはロスの神経精神病院に収容される苦しい生活を強いられた。そんな時に彼を支えたのはボウイ。退院後ボウイのステイション・トゥ・ステイション・ツアーに参加するなど復活の下地を作っていった。当時ヨーロッパにご執心だったボウイと共にベルリンに移り住んだイギーはボウイとの共作を中心とした初のソロ『イディオット』(1977)の発表で見事復活を果たしたのだった。
【ムッシュから一言】
東の「ルー・リード」を僕は前衛音楽だと思っていて、パンクはメンタルとフィジカルのコラボレーションミュージックだと思っています。
 
パンク・ムーヴメントとイギーのソロ活動
ストゥージズ時代と打って変わったダウナーで内省的ながらパワーを秘めたスタイルに変貌したイギーは次いで発表した『ラスト・フォー・ライフ』(1977)ではバンドをバックに成熟したハード・ロックへの回帰を見せた。折からシーンにパンクロックが登場、パンクの始祖として注目を集めたイギーはボウイと袂を分かち、昔のストゥージズのメンバーと共に発表した『ニュー・ヴァリューズ』(1979)でその存在を示したが、以降『ソルジャー』(1980)『パーティ』(1981)『ゾンビー・バードハウス』(1982)といった創作的にも商業的にも中途半端な作品を連発し、などをリリースしたものの当初の勢いとクオリティを維持することができず、ドラッグ癖の再発と共にまたしてもシーンから暫く消え去ることになってしまったのだった。
【ムッシュから一言】
この頃のイギーにとって「デイヴィット・ボウイ」の存在は本当に助かった事でしょう。
 
新たなる復活
『イディオット』収録の「チャイナ・ガール」を共作者のボウイが大ヒットさせたことによって突如転がり込んだ印税を手にしたイギーはこのチャンスを捉えるべくドラッグも止め、食事パターンも改めるなど自らをリセットして久々にリリースした典型的80年代的サウンドの『ブラー・ブラー・ブラー』(1986)でひとまず復活。『インスティンクト』(1988)で再び原点のハードなサウンドを取り戻したイギーは続く『ブリック・バイ・ブリック』(1990)で名プロデューサー、ドン・ワズの手腕もありハードで内省的なサウンドを復活させた。その後も『アメリカン・シーザー』(1993)『ノーティ・リトル・ドギー』(1996)と質の安定した作品を出し続けるイギー。今年60歳になるが復活以降鍛え続けている強靱な肉体で今もライヴでは観客にダイヴし続けているようだ。
【ムッシュから一言】
60歳になった今でも体を鍛えてダイヴするイギーってちょっと気持ち悪くないかい?
でも若いパンクミュージシャンから誉められてるようなので凄いです。

エアロスミス

アンダーグラウンドの雄、ストゥージズ登場
70年代中期にアメリカではラモーンズ、UKではセックス・ピストルズによるパンク・ロックの登場から遡ること10年前に既に当時の音楽シーン、体制的な全てを否定するギター・スリー・コードのエッジーなロックで周りの度肝を抜いていたのがアメリカはシカゴ近郊のアン・アーバーで結成されたストゥージズ。
当時アンダーグラウンドのもう一つの雄だったNYのヴェルヴェット・アンダーグラウンドのジョン・ケイルのプロデュースによるデパワーバラードで全米制覇
3作目『闇夜のヘヴィ・ロック』(1975)からの「スイート・エモーション」が初のメジャーヒットとなったエアロスミスは全米のロックラジオ局の注目を集め、『野獣生誕』収録のパワーバラード「ドリーム・オン」がエアプレイを集め、一躍全米トップ10ヒットに。同時期にリリースしたハードロックの傑作『ロックス』(1975)は発売と同時にプラチナアルバムとなる大ヒット作(全米第3位)となり、エアロスミスは一躍アメリカンロック・シーンを代表するハードロックバンドにのし上がった。続く『ドロー・ザ・ライン』(1977)もあっという間にプラチナディスクとなり彼らの人気を更に強固なものに。またこの年は後にランDMCがカバーする「ウォーク・ディス・ウェイ/お説教」も全米トップ10の大ヒットとなった。他にも映画『サージェント・ペッパーズ』(1978)への出演、『ライブ・ブートレッグ』(1978)の大ヒット等エアロスミスは70年代後半のアメリカン・ロック・シーンを文字通り席巻したのだった。
【ムッシュから一言】
1980年代になって RUN DMC の「ウォーク・ディス・ウェイ」で初めて興味を持ちました。つまりジョー・ペリーのギターのリフにやられたのです。
 
分裂、低迷、そして再出発
頂点を極めた彼らの80年代は『ナイト・イン・ラッツ』(1979)の発表とジョー・ペリーの突然の脱退で始まった。ジョーはジョー・ペリー・プロジェクトを結成、『熱く語れ』(1980)を発表。
1981年にはもう一人のギタリスト、ブラッドも脱退しウィットフォード・セント・ホルムス・バンドを結成。2人の新ギタリストを加えたエアロスミスは『美獣乱舞』(1982)を発表、長期に渡るツアーに出たが、バンドとしての勢いは明らかに下降線を辿り、スティーヴン・タイラーはドラッグとアルコールで不満を癒す日々が続いたとか。ソロ活動に行き詰まったジョーの思いとも相まって1984年オリジナルメンバーが確執を乗り越えて再集合、新たにゲフィン・レコードと契約した彼らは『ダン・ウィズ・ミラーズ』(1985)で再出発を切った。
折からランDMCの「ウォーク・ディス・ウェイ」のカバーが全米4位の大ヒットとなり、ビデオクリップにも登場して競演したスティーヴンとジョーの元気な姿はエアロスミスへの注目を再び集めることととなった。
【ムッシュから一言】
アラン・メリルの娘とスティーブン・タイラーの娘、つまりリヴ・タイラーがニューヨークの"Xジェネレーション"というクリエイト若者友達だったり確か、ソフィア・コッポラもそうだったかな?
僕の場合音楽だけではなく"なんじゃら関係"みたいなものも興味の大きな要素になるわけです。つばりミーハーなんだ。
例えば、幼少のリヴ・タイラーをスティーブン・タイラーに頼まれてトッド・ラングレンが育てていたという話とか(何かワケありだったのかなぁ?)
 
華麗なカムバックと円熟のハード・ブギー
『パーマネント・ヴァケーション』(1987)以降のエアロスミスはロック史上屈指の劇的なカムバック振りを見せた。
同作と『ロックス』以来の全米トップ10アルバムとなった『パンプ』(1989)はシーンでも高い評価を集めたばかりか、「デュード」「エンジェル」「エレヴェイター・ラヴ」「ジェイニーズ・ガット・ア・ガン」等のチャートヒットを次々に生み出して新たなファンベースを確保し自らの再定義に成功。
続く『ゲット・ア・グリップ』(1993)とレーベルをコロンビアに戻しての『ナイン・ライヴズ』(1997)は共に念願の全米No.1アルバムを達成。更にスティーヴンの実娘リヴ・タイラー主演の映画『アルマゲドン』の主題歌「ミス・ア・シング」も初の全米No.1シングルとなり、まさに全米を征した感のあるエアロスミス。
2001年にはロックンロールの殿堂入りを果たした彼らは今年3月末にはブルースのカバー中心の新作『ホンキン・オン・ボーボー』をリリース、7月には来日も予定されている彼らのロックライフはまだまだ続きそうだ。
【ムッシュから一言】
21世紀になっても最強のバンドであり続けるだろうし、最近聴いたブルースカヴァー中心の「ホンキン・オン・ホーボー」も最高でした。とにかくこのバンドはスゴイバンドだと思います。

 エルヴィス・コステロ

パブロックシーンから飛び出したロック詩人がレコード・デビュー
パンクロックの源となったパブロックシーンで「フリップ・シティ」というバンドを率いて活動していたD.P.コステロは、パンクブームのさなか“エルヴィス・コステロ”の名でデビュー。
ファーストアルバムは新世代のシンガーソングライターの登場と注目され、早くも英米のヒットチャートに名を記すこととなった。
【ムッシュから一言】
黒縁メガネや過激な発言などのイメージ戦略にまんまとハマリ、デビュー当時に僕も凄いのが出てきたなぁと思ったのを記憶してます。
 
商業的成功、高まる注目と度重なるトラブル
パンクブームの追い風を受けて彼はヒットアルバムを連発。
しかし過激なイメージ戦略や彼のシニカルな言動は各地で物議を醸し、アメリカで起こした些細なトラブルがきっかけでついにメディアは彼を「人種差別主義者」と糾弾。
ラジオ局は彼の作品のオンエアをとりやめ、それまでの飛ぶ鳥を落とす勢いは挫かれた。
【ムッシュから一言】
イメージ戦略は凄すぎてこの頃は行き過ぎてしまったらしい。
でもその後のロックバンド、ロックシンガーには大きな影響を与えたのではないでしょうか?
 
試行錯誤を繰り返した80年代
パンクロックの沈静化に伴いコステロも音楽性を見つめ直し、自らのルーツを再探訪するアルバムを立て続けに発表。
その後の作品は私生活の混乱もあって気まぐれなものとなり、一作毎に様変わりする作風にリスナーは困惑。
熱心なファンは依然彼を支持し続けたが、かつてのような大ヒット作が生まれることはなかった。
【ムッシュから一言】
僕もそうでしたが、コンピューター音楽も一つの要因だと思いますが80年代は世界的に音楽が混沌としていった時代でしたね。
コステロは試行錯誤したのでした。
 
ベテランとしての風格を増し、孤高の存在へ
90年代以降の彼は相変わらず多作ながら作風は安定感を増し“音楽界の良心”的地位を確立した感がある。
同世代の多くのアーティストが全盛期の思い出を切り売りする懐メロバンド化する中でコステロは常に音楽性の幅を広げ、ファンのみならず後続アーティストたちの尊敬の念をも一身に集めている。
【ムッシュから一言】
色々なジャンルを通ったからこそ出来る音楽ってあって、もともと才能はあったからヒット曲にも恵まれたんでしょう。

 EL&P

新世界プログレを拓くスーパートリオ誕生
60年代末、アメリカではサイケデリッグ・ロックが新ムーヴメントとして勃興する頃、イギリスではクラシック、ジャズ、ブルース、R&Bを融合しシアトリカルな楽曲を卓越したテクニックで演奏する「プログレッシヴ・ロック」が台頭していた。
その急先鋒がこのEL&P。
既にナイス、キング・クリムゾン、アトミック・ルースターというプログレ先駆バンドで活躍していたキース・エマーソン(kbd, synth)、グレッグ・レイク(b,g,vo.)、カール・パーマー(ds)の3人が1970年に合体、EL&Pが誕生。
同年夏ワイト島ポップ・ミュージック・フェスティヴァルでキースのハモンド・オルガンと当時まだ珍しかったムーグ・シンセサイザーによるムソルグスキー「展覧会の絵」の演奏で衝撃のデビューを飾った3人はすぐさまアルバム『エマーソン・レイク&パーマー』を発表。
英4位、米18位の大ヒットとなったこのアルバムでEL&Pの人気が確立された。
【ムッシュから一言】
当時、このシンセサイザーなる物の音を使いこなしていた(?)キースはすごいね! フォークの世界に入って行く時期の僕にとっては結構、衝撃的な音でした。
 
創造の高まりとスーパースターダム
2作目『タルカス』(1971、英1位米9位)の大ヒットにより人気を不動とした彼らは勢いを駆ってデビュー時からの定番をライヴ録音した『展覧会の絵』(1972)をまたもヒットに。
同作収録の「ナットロッカー」辺りから現代作曲家の作品にも手を伸ばし、次作『トリロジー』(1972、英2位米5位)ではアーロン・コープランドの曲を基にした「ホウダウン」を収録、この曲は後までライヴでの定番となった。
この年はアメリカ・カナダ・ヨーロッパと大規模な世界ツアーを敢行、夏には初来日も果たしている。
自らのレーベル、マンティコアから発表の5作目『恐怖の頭脳改革』(1973)は成功のプレッシャーにも関わらずまたも英米で大ヒット(英2位米11位)。
翌年開催のカリフォルニア・ジャムに出演したEL&Pは35万人の観客の前で壮大なステージを繰り広げたという。
【ムッシュから一言】
72年(?)の夏の来日にはステージは見ていませんが、何故かグレック・レイクと知り合いになりカール・パーマーと3人で新宿厚生年金会館にジャスロ・タルを一緒に見に行きました。 今では面白い想い出です。
 
時代に押し流されるEL&P
次作の『レディーズ&ジェントルメン』(1974)が3枚組ライヴにも関わらず英5位米4位の大ヒットとなるに至りEL&Pの人気は頂点を極めた。
その後長い休暇に入った3人はそれぞれのソロ作品に取組ながら充電に勤しんだが、不幸な事に70年代後半プログレというスタイルは既に過去のものとなりつつあった。
久しぶりに集まり3人それぞれのソロサイドと EL&Pとしてのサイドによる『ELP四部作』(1977)はこの時代的環境変化に加え、作品としての散漫さも災いし、評価は散々。
続く未発表曲・シングル集『作品第二番』(1977)も不発に。
オーケストラを従えた1977年ツアー案が収支上の問題で没になったり、レコード会社との契約に強制され作った『ラヴ・ビーチ』(1978)の商業的失敗等により、EL&Pはとうとう1979年解散の憂き目を見る。
【ムッシュから一言】
この頃になると日本でもプログレは人気がなくなっていったのを思い出します。 しかし、3枚組みのライブアルバムが売れるほど人気があったんだね。
 
多彩なソロ活動、そしてついに再結成
解散後キースは映画音楽の世界、グレッグは自らのバンドを率いてソロ作の製作とツアー活動、カールはプログレ残党とスーパーバンド、エイジアを結成し商業的成功を収めるなどしばらくは三者三様の道を追求した。
1985年エイジアと契約上離れられないカールの代わりにコージー・パウエルを迎た「P」違いのEL&Pによる『エマーソン、レイク&パウエル+2』(1986)、キースとカールを中心とした「3」の『スリー・トゥ・ザ・パワー』(1988)等の課外活動の末ついに1992年3人が再結集した『ブラック・ムーン』(1992)で従来のEL&Pの壮大なサウンドと最新テクニックを駆使したサウンドでファンを喜ばせた。
その後も何故か続々と出るライヴ盤、未発表音源盤やベスト盤と並行して『イン・ザ・ホット・シート』(1994)をリリースするがキースの右腕の神経障害が発覚し、活動は現在休止状態。ただキースも含めソロ活動も並行して続けており、久々の新作リリースを是非期待したいものである。

 エルヴィス・プレスリー

南部のトラック運転手が「アメリカン・アイドル」に
テネシー州メンフィスで歌手になることを夢見ていたエルヴィスは高校卒業後トラックの運転手をしながら地元のレコード会社に売り込みをかけ1954年にレコードデビューを果たす。その録音は地域で評判となりメジャーレーベルから注目されて全米デビューへ。「ハートブレーク・ホテル」はメディアへの露出が話題となってヒットチャートのナンバー1を記録した。
【ムッシュから一言】
ELVISの音楽が米軍放送"WBTR"から聞こえて来たのは僕が16歳ぐらい(1955年)だった。
当時、僕はアコースティックなコテコテのカントリーミュージックをやっていてELVISのドラムとエレクトリックギターが入ったビートの強いサウンドにビックリした。
更にビックリしたのは奴は腰を振りながらシャウトすることだった。
こんなのカントリーじゃないと思った。そう、それはロカビリーだった。
 
徴兵でキャリアは一時中断、復帰後はポピュラーの王道へ
メジャーデビュー後約3年間向かうところ敵なしの勢いで活躍を続けたエルヴィスだったが、58年に陸軍に徴兵されキャリアは約2年中断。その間も人気が衰えなかった彼は60年の除隊後幅広いポップスを取り上げるようになりR&Rのスターからアメリカのポップスを代表するシンガーに成長した。
【ムッシュから一言】
ELVISの初期楽曲、例えば「I WANNA PLAY HOUSE WITH YOU」とか「BLUE MOON OF KENTUCKY」が大好きだった。
理由はカントリー色が強かったからだ!
 
新世代の突き上げを受けるも、60年代後半に見事な復活を遂げる
1964年、ビートルズがアメリカに上陸すると各地で新しい音楽の波が起こり、ハリウッドのスター・システムにどっぷり浸かっていたエルヴィスは徐々に時代遅れな存在となり、成績は低迷。しかし68年のTVスペシャルでの熱演が評判となり音楽シーンの第一線に返り咲き。成熟したパフォーマーとして大ヒットを連発した。
【ムッシュから一言】
「ハートブレイクホテル」が大ヒットしている時、日本では小坂一也さんが日本のELVISと言われていた。
金髪じゃなく黒髪にしたのが日本でも受け入れられた要因かもね。
パーカー大佐のマネージメントが成功というところでしょう。
 
ツアーに明け暮れた70年代、そして突然訪れた死
復活を遂げたエルヴィスはライブ・パフォーマンスを再開。お馴染みのジャンプ・スーツに身を包んでのステージはラスベガスをはじめ全米各地を熱狂の渦に巻き込んだ。しかし度重なるツアーに私生活のトラブルも重なり、彼はやがて薬物依存に。これが遠因となり1977年に命を落としたエルヴィスは、死後21世紀に入った現在もなお、トップクラスの人気を誇る存在であり続けている。
【ムッシュから一言】
なんだかんだ言いながらELVISの映画は全部観たし、音楽もほとんど聴いてます。
それなりに楽しませてもらったけど僕はELVIS世代なんだけど完全にノレなかったのは自分の責任だと思います。
やはり生理的に受け付けないものがあったのです。
でも、ELVISはKINGなのです。

 エンヤ

兄弟達とのバンド活動と独立
混乱を極める今の世界情勢の中、一服の清涼剤のような音楽を世に送り全世界から根強い支持を得るエンヤ。アイルランドの自然と音楽環境に囲まれて育った彼女のキャリアのスタートはその兄弟達のグループ、クラナッドへの加入(1979)だった。しかしアイリッシュ・フォークとポップの融合というバンドの方向性に飽きたらず、また自分がグループの方向性に影響を与えられないと悟った彼女は、グループのプロデューサーでこの後行動を共にすることになるニック・ライアンと共にクラナッドと袂を分かち、ソロへの道を進んだ。
【ムッシュから一言】
アイルランド北西部ドネガル生まれというと大片田舎の出身だけどアイリッシュトラッドのエッセンスは当然兄弟たちの影響もあるし体中にしみ込んでいるエンヤだ。そんな時必ず彼女にとって正しいプロデューサーが現れ、ソロになってゆくケースは一般的にごく自然なのかもしれない。
 
予期せぬ世界的大ブレイク
BBCドキュメンタリーに提供した曲を集めたファースト『Enya』(1987)で活動をスタートした二人は、9ヶ月の膨大な時間と労力をかけてボーカルの多重録音と音像を多層的に構築したアルバム『ウォーターマーク』(1988)を完成。全世界で何と1000万枚を売り上げたこのアルバムからは、荘厳な多重ボーカルと神秘的なメロディが印象的なシングル「オリノコ・フロウ」が全英でいきなりNo.1、全米でも大ヒットしエンヤの名前を一躍世界中に知らしめた。
【ムッシュから一言】
1988年の「ウォーターマーク」が全世界で1000万枚のセールスを上げたのはソロになってからの当然といえる第一目標であったに違いない。この時に荘巖で神秘的なエンヤのイメージが出来上がったのだ。
 
地歩を固めるエンヤ
世界的な認知を勝ち得たエンヤは時間をかけた丹念なアルバム作りで、続く『シェパード・ムーン』(1991)、『メモリー・オブ・トゥリーズ』(1995)とそれぞれ忘れた頃に完成度の高いアルバムを届けて世界中のファンの支持をキ-プ。特に後者は全くのシングルヒットなしで全米アルバムチャートのトップ10に初登場するという快挙を達成。この2枚共それぞれの年のグラミー賞ニュー・エイジ・アルバム部門を獲得、名実共にエンヤ・サウンドは世界中を静かに覆い尽くし、厚いファン層を作り上げていった。
【ムッシュから一言】
40歳前後のアーティストは驚異の完全主義に貫かれた人が多く、エンヤもその一人だと思いますが私個人的には音を楽しむというリラックスしたものは得られない。1kmぐらいはなれている山の頂上から彼女の声が聞こえてくるぐらいが私には心地よい。
 
9/11をきっかけに再び世界のトップスターへ
2000年に久々の新作『ア・デイ・ウィズアウト・レイン』をリリース。エンヤが再びその存在を訴えたのは、2001年9月11日のNY貿易センタービルテロ事件。この痛ましい事件後、誰ともなくこのアルバム収録の「オンリー・タイム」をエアプレイし始め、傷ついた人々の心を癒すかのような荘厳なエンヤ・サウンドが再び世界を満たした。新曲「メイ・イット・ビー」が現在公開中のファンタジー映画『ロード・オブ・ザ・リング』に使われアカデミー賞にノミネートされるなどエンヤの活躍はまだまだ続きそうだ。
【ムッシュから一言】
下界と隔絶された創作活動をしているらしいとか、アフリカ原住民のリズムを巧みに取り入れたり「アルバムなんて生まれてこのかた買ったことがない」とかとにかくヒット曲が無くても世界的なレコードセールスをしているわけだけど映画監督はエンヤが好きらしい。今後も当分生き続ける華の無い歌姫でありましょう。癒し系というのか?今の時代にピッタリだもの。でも僕だったら全然違うんだよね。マリアカラスを聴いていたいな。

 オアシス

オアシス誕生
90年代のUKシーンは混沌の状況。一世を風靡したストーン・ローゼズを代表格とするいわゆるマンチェスター・ムーヴメントが曲がり角を迎えていた1993年、新たなブリット・ロックの流れが起きる中、ストーン・ローゼズに影響を受けたノエル・ギャラガー率いるオアシスはマンチェスターで結成された。実弟のノエル、ギターのポール・"ボーンヘッド"・アーサー、ベースのポール・"ギグシー"・マッギガン、ドラムスのトニー・マッキャロルによるバンド、レインのリーダーシップを取る形でノエルが加入してスタートしたオアシスは、インディーのクリエーション・レーベルからシングル「スーパーソニック」「シェイカーメイカー」(1994)を相次いでヒットさせ、デビューアルバム『オアシス』(1994)は、そのビートルズ・エスクな楽曲と伝統的ブリット・ロック・バンド的半不良っぽさで全英アルバムチャート初登場No.1を記録、華々しいオアシスの歴史の幕開けを飾ったのだった。
【ムッシュから一言】
まず、「オアシス」と言う言い方はサハラ砂漠で駱駝が水飲んでるとか丸の内のサラリーマンがクールビズスタイルでエビアンの小瓶飲みながらハンカチで首を拭いてるみたいなダサーイ感じだから「オエイシス」と発音してよ!
せっかくストーンローゼスに触発されて遥々マンチェスターから出現したんだから。
 
UKに次いで全米制覇
「リヴ・フォーエバー」「シガレッツ&アルコール」「ホワッテヴァー」と3曲連続全英トップ10ヒットを放ったオアシスはトニー・マッキャロルに代わり加入したアラン・ホワイトを加え、セカンド『モーニング・グローリー』(1995)を発表。再びアルバムチャート1位初登場を果たしてUKロックシーンのトップに上り詰め、「ワンダーウォール」が全米8位となる大ヒットとなり英米での人気を確立した彼らだったが、デビュー当時からつとに有名なノエルとリアム兄弟の絶えない喧嘩で1996年夏の全米ツアーをキャンセルするなど、不安定なバンド状態が続いていたのも事実。しかし続く『ビー・ヒア・ナウ』(1997)はオアシスの『サージェント・ペッパーズ』とも言える彼らのピークの作品で、「ドユー・ノウ・ホワット・アイ・ミーン?」「オール・アラウンド・ザ・ワールド」の2曲のUKNo.1ヒットを放ち、彼らの絶頂期を記録したのだった。
【ムッシュから一言】
リーダーのノエル君、ギターのリアム君のギャラガー兄弟はちょっと不良気取りで自尊心だけは高いイギリスのオニイちゃん的でプレスには言いたい放題で顰蹙買って僕に言わせれば理想的なロックバンドです。
 
メンバー離散
しかしメインストリームに急速に接近した『ビー・ヒア・ナウ』は一方であっという間にチャートから姿を消す結果に。そして毎度おなじみのバンド内の諍いも相まって結成以来のギタリストだったボーンヘッドとベースのギグシーが脱退。新ギタリストのゲム・アーチャー、ベースのアンディ・ベルを迎えたオアシスは『スタンディング・オン・ザ・ショルダー・オブ・ジャイアンツ』(2000)を発表。この年フランス・ツアー中にリアムが一時バンド離脱するなどバンド解散の危機もあったが、夏に行ったウェンブリー・スタジアムでのライヴ納めた『ファミリアー・トゥ・ミリオンズ』(2000)をリリースして2000年ツアーは成功裏に終了した。しかし続いて発表の『ヒーザン・ケミストリー』(2002)は手堅い制作ながら売上は奮わず、おまけにノエルとアンディが自動車事故で負傷、リアムはミュンヘンで乱闘騒ぎに巻き込まれ負傷するなど災難続きの状態が続いた。
【ムッシュから一言】
「オエイシス」はちょっとビートルズ入ってるけどいい音楽作るんだよね。
やはりとっても才能があるってことです。ミュージシャンはとりあえずいい音楽を作れたら他の事は少し許してね!でいいんでねーの!!と言うのが僕の甘い考えです。
 
オアシス復活
ドラムスのアラン・ホワイトの脱退で、リンゴ・スターの息子ザック・スターキーをメンバーに迎えたオアシスは、ここ数年のもやもやしたものを吹っ切るかのようなアルバム『ドント・ビリーヴ・ザ・トゥルース』(2005)をリリース。バンド自身も久々の充実作として発表し、『モーニング・グローリー』以来の快作として評論家筋にも評価を受けたこの最新作は、日本でも何とオリコン初登場1位を記録するなど、ここしばらく消化不良だった内外のオアシス・ファンの期待に応える結果となった。アルバムのみならずシングル「ライラ」もUKチャート初登場1位を記録するなど再び復活ののろしを挙げたオアシス、昨年はサマーソニックのトリを務めるなど今後もUKロックの重鎮としてその存在感を維持していってくれることだろう。

 オーティス・レディンク

運転手からデビューのチャンスをつかむ
リトル・リチャードに憧れて歌手の道を選んだオーティスは、ブルース・ギタリスト、ジョニー・ジェンキンスの運転手兼シンガーを務めていたある日、ジェンキンスのレコーディングの残り時間を利用する形で自作曲「These Arms Of Mine」を録音するチャンスを与えられる。見事に歌いきった彼に感心したレコード会社はこの曲のリリースを決定。幸運にもヒットとなってソロシンガーのキャリアが開けた。
【ムッシュから一言】
1960年代中頃、とにかくタムラ・モータウンよりスタックス・レーベルが好きだった。「ブッカーT&MG's」そして「オーティス・レディング」。
何故かなぁ?と今考えてみると、モータウンはSHOW BIZでスタックスはエッジの利いたインディーズみたいな味わいだったからなのでしょう。
 
アイドル、サム・クックの死後R&B界の第一線へ
ヒットを放ち自身のバンドを持つことはできたが、その後数年間彼は知る人ぞ知る存在に甘んじていた。オーティスが注目を集めるのは皮肉にも彼がアイドル視していたサム・クックが殺害された翌年の1965年からで、強烈なシャウトを武器に新時代のR&B“ソウル・ミュージック”をヒットチャートのTOP40に送り込んだ。
【ムッシュから一言】
オーティスが好きだったサム・クックも、僕にはSHOW BIZ臭かった。
でもロッド・スチュアートなど後のSoul/R&B系POPアーティストたちがサム・クックを好んだように、オーティスにとっても彼がアイドルだったのが良く分かるし、今になってみればベクトル的にオーティスのチョイスが正しかったのも分かります。
 
白人のオーディエンスをつかみ、ヒットチャートの上位へ
立て続けにヒットを放ったオーティスは活躍の場をR&Bとポップの垣根を越えて広げ、各地を精力的にツアー。ヨーロッパ大陸の観客を熱狂の渦に巻き込み、1967年夏に開催された「ヒッピーの祭典」モンタレー・ポップ・フェスティバルでも、それまで白人の音楽ファンが接したことのなかった生の“ソウル・ミュージック”を披露して強烈な印象を残した。
【ムッシュから一言】
オーティスのヨーロッパツアー時のライブレコードでビートルズの「デイ・トリッパー」をカヴァーしているのを聴いて初めて彼に注目し、そして僕は当時ザ・スパイダーズだったんだけど、それをちゃっかりカヴァーしました。
何故ならビートルズをカヴァーして誰もビートルズ以上のカヴァーが出来なかったのに、オーティスは100%ビートルズよりかっこよかったからです。
 
キャリア絶頂期に突然襲った飛行機事故
これまでどのR&Bアーティストも達成し得なかった規模の成功を収めつつあったオーティスだが、そのキャリアは突然終わりを迎える。ツアーの移動中乗っていた飛行機が墜落し、バックバンドのメンバーとともに帰らぬ人となってしまったのだ。死の3日前に録音された「ドック・オブ・ベイ」はシングル発売され全米ナンバー1を記録。現在も歌い継がれる古典的名曲となっている。
【ムッシュから一言】
1967年12月にご不幸でこの世の中から消えちまったオーティスですが、僕にとって彼の代表作は「ドック・オブ・ベイ」では無く、絶対「デイ・トリッパー」でございます。
私はこれからもオーティスの「デイ・トリッパー」を歌い続けるつもりでゴザンスよ!!

 オールマン・ブラザーズ・バンド

天才ギタリスト、デュアンとオールマン・ブラザーズ・バンドのブレイク
1969年ジョージア州メイコンでバンドを結成した6人は、自分たちがその後70年代数々のフォロワーを生み出しアメリカン・ロックに大きな影響を与える代表的バンドとなるとは夢にも思わなかったに違いない。早くからそのスライド・ギターの腕前で天才ギタリストの誉れ高かったデュアン・オールマンとディッキー・ベッツのツイン・ギターに加えツイン・ドラムという当時としてはあまり例をみないバンド編成で、ライヴの実力とブルース/R&B/カントリー/ジャズといった様々な音楽要素を一体化した音楽スタイルは幅広い支持を集めて、1971年の出世作ライヴ『フィルモア・イースト・ライヴ』で一躍ブレイク。特にデュアンはセッション・ミュージシャンとしてもデレク&ザ・ドミノスの「いとしのレイラ」でエリック・クラプトンと渡り合う等その存在感と人気を高めた。
【ムッシュから一言】
ブルース、R&B、カントリー、ジャズといった様々な音楽要素を一体化したスタイルは現在もアメリカン・ロックの代表だと思います。そしてデュアン・オールマンという天才ギタリストの事はいつまでも忘れられません。1971年の「フィルモア・イ-スト・ライヴ」を聞いて下さい。
 
相次ぐ悲劇と新たな栄光
人生好事魔多し。キャリアの頂点に登り詰めようとしていたバンドとデュアンは1971年10月デュアンのオートバイ事故での急死で大きな痛手を負う。享年24歳。悲しみを抑えながらデュアンの遺作としてリリースされた名作『イート・ア・ピーチ』(1972)は彼ら初の全米トップ10アルバムとなり、皮肉にも彼らの存在感を決定付ける作品となった。そこに襲ったのが第2の悲劇、ベースのベリー・オークリーがデュアンとほぼ同じ場所でやはりオートバイ事故により他界。これを跳ね返すべく彼らが放った『ブラザーズ&シスターズ』(1973)は見事に全米No.1、シングル「ランブリン・マン」の大ヒットや彼らの代表曲「ジェシカ」等が人気を呼び、オールマンは相次ぐ悲劇を乗り越えてようやく栄光をつかんだかに見えた。
【ムッシュから一言】
そのデュアンがオートバイ事故で亡くなり、デュアンの遺作としてリリースされた名作「イ-ト・ア・ピ-チ」は彼らの初の全米トップ10アルバムとなり、皮肉にも彼らの存在感を決定付ける作品となった。ところが今度はベースのベリオークリーがやはりオートバイ事故で他界。これをまた跳ね返すべく彼らが放った「ブラザ-ズ&シスタ-ズ」は見事に全米NO.1、シングル「ランブリン・マン」の大ヒットや代表曲「ジェシカ」が人気を呼び、相次ぐ悲劇を乗り越えてようやく栄光をつかんだかに見えた・・・・が?
 
栄光の失墜と不遇の80年代
続く『ウィン・ルーズ・オア・ドロー』(1975)がセールスはともかく内容的に駄作となったのには理由がある。この頃からグレッグとディッキーの音楽的対立が表面化、ソロ活動を開始したこと、メンバーのドラッグやアルコール漬けによるバンド状態の悪化等だ。特に1976年グレッグが自らの逮捕回避のため連邦捜査官にバンドのロード・マネージャーを売ったとしてメンバー間の不和は決定的に。事実上解散したバンドは、ディッキー率いるグレイト・サザーン、チャック・リーヴェルらのシー・レベルと分散。何故か1979年一瞬再結成『いま、再び...』をトップ10に送り込んだが直後に所属のカプリコーン・レーベルが倒産。同時に折から迫り来るニューウェイヴの台頭等シーンの変動に取り残され、事実上再解散状態に。以降80年代は殆ど彼らの名前を耳にすることはなかった。
【ムッシュから一言】
70年代後半のアルバムの内容的が駄作とかバンド内の音楽的対立、ドラッグ、アルコール漬け等による状態の悪化等々80年代も殆ど彼らの名前を耳にすることはなかった。
 
オールマンよ、どこへ行く?
1989年ボックスセット『Dreams』発売を機に再々始動したオールマンはディッキーのソロ時代関係のウォーレン・ヘイズをギターに、往年の名作を手がけたトム・ダウドをプロデュースに迎え久々に評判を呼んだ『セブン・ターンズ』(1990)でシーンに復活。その後90年代を通じて精力的なライヴ活動を再開、新旧のファンを喜ばせた。また1990年、1991年とグラミー賞のベスト・ロック・インストゥルメンタル部門ノミネート、1995年ロックの殿堂入り、その間『シェイズ・オブ・トゥ・ワールド』(1991)、直近のライヴの様子を伝える『ファースト・セット』(1992)、『ホエア・イット・オール・ビギンズ』(1994)等それなりの質の作品を発表し健在振りを示したがここ 4-5年は活動がややライヴに偏り気味であり、新作の話が聞こえてこないのが寂しいところ。
【ムッシュから一言】
90年代に入り、グラミー賞ベストロック・インストゥルメンタル部門ノミネートとかロックの殿堂入り等と少なからず健在振りを示したが、この4,5年はややライヴ活動に偏り気味だそうで新作の話が聞こえてこないのが寂しいところです。

 オジー・オズボーン

ブラック・サバスのボーカリストとしてデビュー
1969年に結成されたヘヴィ・ロックバンド「ブラック・サバス」は「悪魔崇拝」のおどろおどろしいイメージが話題となり、71年にセカンドアルバム「パラノイド」が大ヒット。70年代を通じてヒット作を連発した彼らのフロントマンを務めたのがオジー・オズボーンであった。
【ムッシュから一言】
「オジー」=「ブラック・サバス」=「ヘヴィー・メタル」でしょ?
当時僕の友人の日本人ミュージシャンで「ヘビメタ」って演奏中に"ヘビ"が出てくる音楽だと本気で思っている人がいました。
 
バンドから独立、ソロとして成功を収める
1978年にサバスを解雇されたオジーは自己のバンドを結成、数々の有能なギタリストを起用した高い音楽性と、破天荒な言動の話題性で再び人気アーティストの地位に上り詰めた。
その特異なキャラクターは「MTV時代」もファンを増やし、幅広い世代に親しまれる。
【ムッシュから一言】
オジーと言えば今でも「ブラック・サバス」のイメージが強いのですが当時の彼は『悪魔崇拝』と言うコンセプトにピッタリはまっていましたね。
 
突然の引退宣言とその後の復活
90年になるとオジーはアルバムセールス好調の中突然引退を宣言し、その後約2年をかけて引退ツアーを敢行。しばし沈黙の時期が訪れたがそれは数年で撤回され、復帰後はブラック・サバスの再結成、自ら主催するヘビメタ・イベント「オズフェスト」など従来以上に精力的な活動を展開した。
【ムッシュから一言】
成功の裏でバンドを脱退(解雇されて)して自分のバンドを作ったりその後自らの手で「ブラック・サバス」を再結成したりと、非常に頑張った時期でした。
 
「オズボーンズ」が大ヒット、お茶の間のアイドルに
2001年にMTVでスタートしたTVショー「オズボーンズ」は彼の風変わりな家族たちの生活をノンフィクションで映し出したもので、これが世界的な大ヒット。
彼は図らずも「理想のパパ」の称号を得ることとなる。
家族もそれぞれスターになり、オズボーン家は今後もしばらく世界中のメディアを騒がすことになりそうだ。
【ムッシュから一言】
MTVでのノンフィクション家族愛私生活は大変楽しく拝見したことがありますが一転してオロオロするいいお父さんになり、娘とイギリスナンバー1ヒットを出したりと面白すぎる!そんな状況の中もう一度生の「ブラック・サバス」を観たいね!