Monsieur Voice / Artist Nude

1999〜2017 携帯サイトARTIST NUDE "ムッシュ@Rock" より

【ハ】


 

ヴァン・ヘイレン

結成からデビューーまで
ヴァン・ヘイレンの歴史はカリフォルニア在住のエディとアレックスのヴァン・ヘイレン兄弟を中心としたバンド「マンモス」にデヴィッド・リー・ロスが加わった1973年にスタートする。クラブシーンでの活躍が認められ78年にレコードデビュー、ファーストシングル「You Really Got Me」がいきなりTOP40入りを果たし成功への足ががりをつかむ。
【ムッシュから一言】
これを見ている人はまずエディとアレックスのバンド「マンモス」の音源を探して聴いてみると楽しいと思う。絶対海賊盤とかであると思うんだけど、俺だったら何とか探し出してみるね。クラブとかでやった秘蔵音源みたいなやつ!そこにデヴィッド・リー・ロスが加わってヴァン・ヘイレンに発展した訳だから、面白いバンドだったんじゃないかなぁ。
ファーストシングルに「You Really Got Me」を選んだのが誰なのかは判らないけど、正解だったね!俺も大好きなキンクスのカヴァーなんだけど、他にも色々なバンドが取上げてて認知度のある曲だし。ヴァン・ヘイレンを聴いて、そこからキンクスを聴くことに発展していく、なんて風になるとまた面白い!今日本のインディーズでやってる人も、スパイダースのカヴァーでデビュー、なんてことになったらいいよね。
 
D.L.ロスをフロント大ブレイク
ファーストアルバムをいきなり100万枚以上売り上げた彼らは一躍シーンのトップバンドに。6枚目のアルバム「1984」からはナンバー1ヒット「ジャンプ」が生まれ、ジャンルを越えたビッグアーティストとなる。しかし音楽性の相違から翌年ロスはバンドから独立、グループは第2期を迎える。
【ムッシュから一言】
「ジャンプ」!!ちょうど同時期だったと思うけど、イエスの「ロンリー・ハート」とこの「ジャンプ」を何かの番組でカヴァーしたことがあったなぁ、と思い出した。その時、凄くかっこいい曲だなぁと思ったね。 でも、この頃からちょっとデジタルっぽいものが入ってきたんだよね、シンセとか。デイヴは最終的にデジタルっぽいのが嫌だったんじゃないかな。それが辞めた原因だって誰かが言ってた。傍から見てるとこの頃が一番旬だったよね。「ジャンプ」には他のバンドも影響を受けて、みんな生音にデジタルっぽい音を加え出したもんね。
デイヴにはロッド・スチュアート的なものを感じたね。ステージングなんかも派手だし。サウンドは結構ハードなんだけど、デイヴがカラフルだったからバランスがよくて、あんまり重く感じなかった。それがヒットした要因じゃないかなぁ。
 
S.ヘイガーを迎え絶頂期へ
ロスの後釜として、既にソロとして地位を確立していたサミー・ヘイガーを迎えたバンドはその後4枚のオリジナルアルバムを立て続けにヒットチャートのトップに送り込み、商業的成功の絶頂期を迎えた。しかし約10年に亘る蜜月の後、バンドの主導権争いが元でヘイガーは解雇に。グループは第3期へ。
【ムッシュから一言】
プロフィールを見るとサミー・ヘイガーは元々「モントローズ」ってバンドにいたんだよね。アルバム持ってるけどカリフォルニアの凄くいいバンドだった。エディには敵わないかもしれないけど、この人も凄くギターが上手くて、ヴォーカルとしての力量も凄くある人だよね。だからやっぱり「モントローズ」も探して聴いてみることだね。
次々と替わったヴォーカルの中では結果的に一番長く在籍していたんだけど、ヴァン・ヘイレン兄弟は仲が良かったから、難しいよね、そこに他人が入っていくのは。やっぱり衝突して辞めちゃったね。 この頃はアルバムの完成度が高くて、シングルがヒットした印象よりもアルバムが売れるバンドって感じが強かった。
 
新機軸を打ち出すも失敗、沈黙期へ
3代目ボーカリストに若手バンド、エクストリームのゲイリー・シェローンを据え、彼らはアルバム「3」で第3期突入を高らかに宣言。バンドの新展開にファンの期待は高まったが、時代の移り変わりもありセールス面では惨敗。グループは看板を欠き現在活動を停止中。新たなる一手が待たれている。
【ムッシュから一言】
ゲイリー・シェローンが「エクストリーム」から来て「III」っていうアルバムを出すんだけど、セールス的にはダメだったね。実は俺もこの「III」は聴いてないかもしれない。「エクストリーム」は人気のあるバンドで、ヴァン・ヘイレンのようにギターがやっぱり凄かったんだよね。そう、ヌーノベッテンコート!
最終的に今はヴォーカル不在で活動してないみたいなんだけど、不思議なことにベースのマイケルがずっと変わらずにバンドにいることがファンに復活を期待させ続けてて。そういう意味では、彼がいたからこそバンドはここまで来れたのかもしれない。一部の人間は彼を「腰巾着」呼ばわりしているみたいだけどね。
さて、次は誰がヴォーカルをとるのか?ファンの方はお楽しみに!

ビリー・ジョエル

ニューヨークのピアノマン、西海岸で成功をつかむ
サイケデリック・ロックの嵐が通り過ぎた70年代前半、ロサンゼルスでピアノの弾き語りをやって生計を立てていたビリー・ジョエルがピアノとハーモニカのシンプルなサウンドで歌った「ピアノマン」はヒットチャートの一服の清涼剤として好成績を記録。このときはまだ誰も彼がニューヨークのサウンドイメージを体現していく存在になるとは予想もしなかった。
【ムッシュから一言】
ボクサー、サイケバンド、ライターって凄く下積みが長く、ある種、今日の成功をお喜びします。

「ストレンジャー」の大ヒットでトップアーティストへ
ニューヨークに本拠を移した彼が大ブレイクを果たすのは77年のアルバム「ストレンジャー」の成功によって。新しいタイプのシンガーソングライターとして注目を集める中「ニューヨーク52番街」「グラスハウス」とニューヨークをテーマにしたヒット作を次々と発表、ヒットチャートのトップにも登りつめてグラミー賞を独占と、人気の絶頂期を迎えた。
【ムッシュから一言】
ニューヨークにバッチリはまった名曲が数多く作れるのは西海岸からのニューヨークへの想いが強いからだろうね。
 
一時のスランプの後ポップな作風で再び成功
80年代前半、社会性のあるメッセージを前面に押し出した意欲作「ナイロン・カーテン」で一時失速しかけた彼だったが、その翌年には60年代のポップスの楽しさを現代に伝える「イノセント・マン」で見事復活。以降年輪を重ね重厚さを増しながら時代に即したポップミュージックを提供、90年代前半までシーンの第一線に君臨した。
【ムッシュから一言】
日本での彼の人気は凄いよね。
僕的には息子のTAROも好きで良くカヴァーしてます。
 
引退宣言を撤回、現在も精力的に活動
90年代半ばには家庭を優先し音楽活動を停止するという「引退宣言」を出した彼だったが、それも離婚によりめでたく(?)撤回。オリジナル・アルバムの発表こそないがツアーは精力的に回っており、その熱い雰囲気を伝えるライブ盤が数年おきにリリースされている。熟年ロッカーとなったビリー・ジョエルの、本当のリタイアはまだまだ先のことになりそうだ。
【ムッシュから一言】
天才は気まぐれだけどたまに名曲を生み出すのです。
彼はこれからもOKでしょう。

ブライアン・アダムス

カナダのローカル・ヒーローが全米デビュー
70年代半ばにキャリアをスタートさせたブライアン・アダムスは、1980年にソロアーティストとして地元カナダでデビュー。いくつかのヒットを放ち、アルバムのアメリカ発売が決定した。
メジャーアーティストたちのサポートとして全米ツアーを行い、知名度も徐々に上昇。やがてヒットチャートの下位に彼の名前が登場するようになった。
【ムッシュから一言】
今ではカナダを代表するアーティストの一人である彼も下積み時代を経て80年頃アメリカデビューしたそうです。この頃は僕も知りませんでした。
 
「Cuts Like A Knife」でブレイク、一躍トップアーティストに
1983年に発表した3枚目のアルバム「Cuts Like A Knife」から初めてTOP40ヒットを飛ばした彼は精力的にツアーをこなし、アメリカばかりでなく世界中でブレイク。続いて84年の「Reckless」は全米ナンバー1の大成功を収め、ロックシーン第一人者の地位まで上り詰める。
【ムッシュから一言】
「Cuts Like A Knife」が世界中でヒットをした翌年、私も来日公演に行く機会がありました。日本人に非常に好感を持たれるタイプの外人アーティストの代表だと思いました。
 
頂点を極めた後、暫しの低迷
「Reckless」はアメリカだけで500万枚以上のセールスを記録し、時代を代表するアーティストの一人となったが、続くアルバム「Into The Fire」の制作で苦戦。少々迷いの見られる内容になった同作は前作を大きく下回るセールスに終わり、初めてキャリアの壁にぶち当たることとなった。
【ムッシュから一言】
84年のアルバム「Reckless」はブライアン・アダムスに特別興味の無い僕の友人も持っていたほど売れたアルバムですね。彼の代表曲ばかりのモンスターアルバムです。僕は持っていませんが。
 
バラード路線で復活した90年代
低迷期にあった彼の運気が変わったのは、91年に映画主題歌として提供したバラード「アイ・ドゥ・イット・フォー・ユー」の大ヒットによる。この曲はイギリスで16週連続1位という最長記録を打ち立て、第一線に復帰。以降現在までカナダ、イギリスで安定した人気を保ち、定期的に来日公演も行われている。
【ムッシュから一言】
日本で93年に公開した「三銃士」の主題歌でロッド・スチュアート、スティングと「All For Love」という曲を歌っているのですが意外とこの曲、僕は好きです。したたかな人ですからまたヒットを飛ばすでしょう。

プリンス

戦慄の貴公子登場
80年代ロック・シーンでジャンルを超えた影響力を持ったアーティストを挙げるならやはりプリンスをおいて他にはあるまい。R&B、ロック、ジャズ、ファンクを融合した音楽性とその中性的で先進的なヴィジュアル・イメージはMTV時代の後押しもあり革新的な影響力をシーンに与えた。デビュー作『フォー・ユー』(1978)では普通のR&Bシンガーだったのが初のヒット曲「アイ・ワナ・ビー・ユア・ラヴァー」を含む『愛のペガサス』(1979)ではもうその先鋭的なファンク・サウンドの片鱗を見せ始めていた。『ダーティ・マインド』(1980)でそこに過激な成熟度を加えた彼の初期の代表作となったのは問題作『戦慄の貴公子』(1981)。うねるギターとシンセが織りなす先進的なミネアポリス・ファンクはこのアルバムで完成されたと言っても過言ではあるまい。
【ムッシュから一言】
この人は一体なんだ!って思ったね!!
デビュー作は普通のR&Bシンガーで1年後には革新的なイメージとサウンドになってて。
MTV時代の後押しもあったからヴィジュアルイメージで押し切れたのかな?
この変化には驚きました。アタマヨサソー!
 
傑作『パープル・レイン』と革新的創作への道
従来作品のエキスを高品質の楽曲で表現したのが次作『1999』(1983)。MTVの影響もあり本作から「リトル・レッド・コルヴェット」(最高位6位)が大ヒット、一躍人気を確立した彼が自信を持って放った傑作が自演の同名映画のサントラ『パープル・レイン』(1984)。その粘質度の高いファンクネスをロック的楽曲で表現したこのアルバムはプリンスをシーンの誰からも評価される存在に押し上げた画期的な作品だった。数々の賞を獲得し「ビートに抱かれて」「レッツ・ゴー・クレイジー」の2曲の全米No.1ヒットを生んだこの作品に続きビートルズの『サージェント・ペパーズ』を彷彿とさせる『アラウンド・ザ・ワールド・イン・ア・デイ』(1985)、クール・ファンクの絶品「キス」を含む『パレード』(1986)、そしてプリンス・ファンクの頂点の一つ『サイン・オブ・ザ・タイムズ』(1987)とクオリティの高い作品が次々と生まれたのだった。
【ムッシュから一言】
彼のサウンドはミネアポリス・ファンクというらしい。
ミネアポリスがクリエイティブな土地に感じてくるから彼の影響力はスゴイ!
 
新しいパワーの世代
プリンスはその後も妖艶なヌードジャケが話題となった『ラブセクシー』(1988)、久々の全米No.1ヒット「バットダンス」を含む映画『バットマン』(1989)のサントラを挟み、『パープル・レイン』の続編とも言うべき『グラフィティ・ブリッジ』(1990)と意欲的な作品を発表したが商業的には下降線を。90年にはメンバー一新したバンド「ニュー・パワー・ジェネレーション」を編成、美しくもファンキーな快作『ダイヤモンズ&パールズ』(1991)を発表し、再びその実力をシーンに示した。次作『シンボル・アルバム』のタイトルを奇妙なシンボルマークとしたプリンスは翌年そのシンボルに改名するなど独自の世界に突入。この頃からワーナーとの契約上の確執が始まり、94年には独自にシングル「モスト・ビューティフル・ガール・イン・ザ・ワールド」をリリースするなど、プリンスを取り巻く状況は混沌とし始めたのだった。
【ムッシュから一言】
彼の父親と母親の経歴を見ればプリンスが見えてくる感じ。
 
独自の革新性を追求する殿下
95年にはワーナーとの関係は最悪に。交渉の末、未発表の『ブラック・アルバム』(87年制作)を含む2枚のアルバム発表を条件にワーナーと晴れて袂を分かった殿下は自らのレーベルNPGを設立。いきなりプリンスサウンドの集大成とも言える3枚組大作『イマンシペーション』(1996)、未発表曲集の4枚組『クリスタル・ボール』(1998)と次々に迸る創作を表現し独自の世界に突入。この頃からインターネットを通じた作品発表を始めた殿下は全曲自作自演の『ニュー・パワー・ソウル』(1998)『レイヴ・アン2・ザ・ジョイ・ファンタスティック』(1999)、ジャズ色の濃い『レインボー・チルドレン』(2001)、オールインストの『N.E.W.S.』(2003)と孤高の世界に傾斜していったが、久々のメインストリーム作『ミュージコロジー』(2004)がグラミー賞R&B2部門を受賞、同年ロックの殿堂入りを果たすなど、ようやく表舞台に復帰した感のある殿下のこれからの活躍が期待される。
【ムッシュから一言】
この人は本当にどんな人なんでしょう?
スゴイ役者で凄いミュージシャンでそして凄いビジネスマンなのかもしれません。
この謎の彼は何をやってもサクセスに繋がるパープルレインを我々に降らしているのかな!

ブルース・スプリングスティーン

「ロックンロールの未来」の誕生
70年代初期を飾った重厚長大路線ロックがパンク、ディスコの登場でシーンでの居場所を失いつつあった70年代中期、ニュージャージー州南部からシンガーソングライター達の集うグリニッジ・ヴィレッジに出て来たブルース・スプリングスティーン。メジャーのコロンビアから発表の『アズベリー・パークからの挨拶』(1973)『青春の叫び』(1973)は当時のNYの混乱した風俗やそこに集う人間模様を饒舌なディランタッチの歌詞で表現し一部の評価を得たが彼を全米のロック・メディアの注目の的としたのは60年代的ロックンロールをフィル・スペクター風ながら70年代的感性で疾風が駆け抜けるように表現した名作『明日なき暴走』(1975)だった。この作品で衝撃的な評判を集めた彼を評した有名な言葉が「ロックンロールの未来」。
【ムッシュから一言】
ニュージャージー出身のシンガーというと、フランク・シナトラ、そしてこのブルース・スプリングスティーン。どちらもとってもハングリーなシチュエーションの中から吠えながら登り詰めてきたイメージがあります。イタリア系アメリカ人とアイルランド系アメリカ人のDNAというのは、ある時饒舌で思索深いいわゆるマフィアのようなパワーを感じさせてくれる人が多い。
 
「アメリカに生まれて」
一躍ロックの英雄化したブルースだが一方ただのハイプと片付けられることも。同路線の『闇に吠える街』(1978)で労働者達の厳しい現実に表現の視点を移したブルースは彼のキャリア転換作ともなる2枚組の『ザ・リバー』(1980)そして陰鬱なトーンとアコースティックな演奏の『ネブラスカ』(1982)を相次いで発表、労働者達の幻滅と現実逃避への欲求をニュージャージーの風景を書割りにリアリスティックに表現し、後に続くボスならではの表現スタイルを確立した。しかしMTV時代、レーガノミックスによるタカ派アメリカの復活という背景の中、アメリカ人としての困惑を軽快なロックンロールで表現した『ボーン・イン・ザ・USA』(1984)はレーガン路線賛美作と誤解されたばかりか、皮肉にも7枚のトップ10ヒットを生み出す彼最大の商業的ヒット作となったのだった。
【ムッシュから一言】
NEW YORK CITYは多分昔から混乱している町で、それだから新しいアート、エンターテインメント等が生まれる闇の中の天国みたいなところなのでしょう。何かの才能を持っているとゼロからトップに行き着けるチャンスがあります。だからアメリカ国内からはもちろん外国から夢の入口を求めてやってくる若者が集まるのです。
 
「安楽の地」を求めるボス
『ボーン〜』が皮肉な形で成功し、Eストリート・バンドを率いたツアー収録の3枚組ライヴ作『THE LIVE』(1986)がチャート首位を制覇したが、そんなボスを待っていたのは結婚生活の崩壊だった。トーンは明るいが内省的な『トンネル・オブ・ラブ』(1987)発表後、1989年にEストリート・バンドの解散後発表した『ヒューマン・タッチ』『ラッキー・タウン』(1992)はその中途半端な内容で大きな評価を受けなかった。自らのルーツに戻るかのようにオール・アコースティックでこれまで最も陰鬱なトーンで依然社会的弱者(労働者や移民)がアメリカ社会の矛盾の重荷を背負う現状を鋭く描いた問題作『ザ・ゴースト・オブ・トム・ジョード』(1995)を発表したボスは自らの表現の「安楽の地」を求めるかのような活動を続けるのだった。
【ムッシュから一言】
世界中から高名、有名なシンガー等が、ある日でかいイベントで何とかシアターに集まるような時、皆ドレスアップして、ロールス、ベントレー、ストレッチベンツのショーファー付き。そんな時、スプリングスティーンは皮ジャン、ジーンズでしかもイエローキャブで乗り付ける。
そんな彼がすごくチャーミングで大好きだ。ロックンローラーの感動的な自己プロデュースだ。
 
9ー11、そしてロックのさらなる可能性
1999年ロックの殿堂入りを果たしたボスは急遽Eストリート・バンドを再結成、「ロックンロールの伝道」をテーマとしたツアーを敢行、NYでの感動的なライヴを納めた『ライヴ・イン・ニューヨーク・シティ』(2001)でシーンに復活した。そんな折しもNY貿易センタービルを襲った9ー11テロが勃発。ボスは失意と混乱と怒りに満ちたアメリカを諭し導くようなロックの可能性を改めて見せた名作『ザ・ライジング』(2002)を発表。聴く者に人生とそれをあるがままに生きることの重要さを語りかけた本作はグラミー賞を獲得、改めてボスのシーンにおける存在感を確固たるものとした。ボスは2004年の大統領選に向け政治的なコメントも発表しており、今後ともアメリカの現状を見つめる表現活動が期待される。
【ムッシュから一言】
本人が何と思ったか、オーディエンスがどう聴いていたか知らないけれど『ボーン・イン・ザ・USA』は大好きで、この曲が、スプリングスティーンの全てだと思います。それでいいじゃないの!!
注意深いスプリングスティーンのアコースティックギター弾き語りはやめてほしいです。

ベット・ミドラー

新進女優、音楽シーンに登場
ニューヨークのクラブ・シーンで評判となっていたベット・ミドラーがレコード・デビューを果たしたのは1973年のこと。エネルギッシュかつノスタルジックなステージの魅力を伝えたアルバムは50万枚以上を売り上げ、グラミーでは新人賞を獲得。新しいタイプのエンターテイナーの登場を印象づけた。
【ムッシュから一言】
バーバラ・ストライザンドとゴッチャになってい私ですが確か女優としても、シンガーとしても成功している人ですね。
 
初主演映画「ローズ」でアカデミー賞を受賞
70年代を通じてコンスタントにヒットアルバムを発表し続けたミドラーが映画界へ進出を果たしたのは意外に遅く1979年になってからのこと。映画「ローズ」で主役のロックシンガーを演じた彼女は各方面で賞賛を浴び、アカデミーの主演女優賞をいきなり獲得する快挙を成し遂げた。
【ムッシュから一言】
ゲイ・クラブでのバリー・マニロウとの出会いはその後の人生に大きく影響しているね。
俺と拓郎のような感じかな?
 
主演映画と主題歌の大ヒットでキャリアのピークへ
歌手、女優として着実に活動を続けた彼女が再び大ブレイクするのは80年代末、主演映画「フォーエバー・フレンズ」の主題歌「愛は翼にのって」が彼女にとって初の全米ナンバー1を記録、続いてシングル「ディスタンス」も大ヒットと、米芸能界トップ・クラスの売れっ子となる。
【ムッシュから一言】
映画「ローズ」を観て初めて彼女がシンガーだと思ったのを覚えてます。
 
マイペースで女優業を続ける傍ら、スタンダードナンバーにも挑戦
90年代以降ミドラーは数々の映画に出演を続ける傍ら、TVのコメディ・ショーにも挑戦。また社会への還元にも力を入れチャリティ基金を設立するなど、多岐に亘った活動を展開。ここ数年は全米をツアーで回りながら1940年代のポップスを現代に紹介するアルバムを立て続けに発表、いずれも好評を博している。
【ムッシュから一言】
映画「フォー・エバー・フレンズ」は最高でした!

ホール&オーツ

フィラデルフィアで出逢った2人がキャリアをスタート
フィラデルフィアのテンプル大学で出逢った2人は音楽の好みが一致して意気投合、ミュージシャンとしての成功を目指し現地の様々なアーティストのバックを務める。70年代に入るといよいよデュオとして活動を開始、72年にはメジャーとの契約を決め音楽シーンに登場した。
【ムッシュから一言】
デビュー前の秘蔵音源聴いてみたいね!
僕がフォークの世界に飛び込んだ時期にフィラデルフィアでデビューしてました、うる覚えですが。
 
デュオとしてデビュー、「リッチ・ガール」が初の全米ナンバー1に
デビュー当初の音楽スタイルはフォークロック系で若干派手さに欠けたこともあってか、目立ったヒットを生み出すことが出来なかった2人は、70年代半ばにはレコード会社を移籍し本拠をニューヨークへ。ロックやR&Bサウンドを巧みに取り入れたサウンドが人気を呼んで77年の「リッチ・ガール」が初の全米ナンバー1に輝いた。
【ムッシュから一言】
ニューヨークに本拠地を移動したのが大正解だね。
この頃始めて聴いた覚えがありますがあまりROCKじゃなかったよね。
 
80年に入りキャリアのピークに
ヒットチャートの常連的存在となりつつあった2人の人気が爆発したのは80年代に入ってから。よりロック色を強めたサウンドがラジオで人気を博しミリオン・セラーアルバムを連発、立て続けにナンバー1ヒットを放って当代随一の人気アーティストに。いつしか2人は「史上最高のロック・デュオ」と呼ばれるようになった。
【ムッシュから一言】
個人的にはこの「アイ・キャント・ゴー・フォー・ザット」は今でも聴くほど好きです。
 
21世紀に入っても2人の絆は揺るがず
90年代に入ると時代の移り変わりにより2人の名前がヒットチャートに登場する機会は減ったが、コンビは解消することなく活動を継続。数年おきに発表されるアルバムや定期的に開催されるワールド・ツアーは世界中の熱心なファンの支持を集め続けており、日本でも80年代を知る洋楽ファンを中心に親しまれている。
【ムッシュから一言】
日本が好きなアメリカ人は本当に多くてきっと六本木ですれ違ってるかも!「ジョージ」でね!

ボン・ジョヴィ

まずは日本でブレイク
1983年に結成されたボン・ジョヴィは、手はじめに録音した「夜明けのランナウェイ」がラジオで好評を博して翌84年には早くもアルバム契約を獲得。ファーストアルバムはアメリカで火がつく前に日本で熱狂的に受け入れられ、新人にして早くも日本で単独ツアーをソールドアウトさせる人気バンドとなった。
【ムッシュから一言】
「ボンジョヴィ」という名を始めて聞いたときは「アルマーニ」とか「ヴェルサーチ」のような イタリアノの新しいブランドの上陸かと思いました。しばらくしてアメリカのロックバンドだと 知ったのは日本のティーン達からの情報でした。
 
本国でも人気爆発、ナンバー1バンドに
日本に比べ、本国では今一つだった彼らの人気も、ツアーで全米を回るうち次第に上昇。サードアルバム「ワイルド・イン・ザ・ストリーツ」でついにブレイクを果たし、シングル「禁じられた愛」はナンバー1を獲得。続くアルバム「ニュージャージー」とあわせ全世界で2000万枚以上のセールスをあげた彼らは、80年代末にはトップバンドの地位に登りつめていた。
【ムッシュから一言】
「夜明けのランナウェイ」の曲調、そして何より彼らのビジュアルが特に日本の女の子のティーンズに受け入れられたのだと思います。外国イケ面系バンドは日本で一番早く火が付くケースが多いようです。そして、「ボンジョヴィ」はその後世界中に受け入れられ大成功して行きました。
 
空前の成功の後、バンド解散の危機に直面
アメリカ最大のロックバンドの一つとして90年代を迎えた彼らだったが、数年間ノンストップで続けられたレコーディングとツアーの毎日にグループは疲弊し、初めて分裂の危機を迎える。暫しの休養とソロ活動を挟んだ後グループとして新機軸を打ち出した「キープ・ザ・フェイス」は思うようにセールスをあげられず、バンドは自らを見つめ直す時期を迎えた。
【ムッシュから一言】
大ロックファンの私の友人が「ボンジョヴィのある楽曲をメロディーだけ引っぱり出したら立派なフォークソングだったよ」なんて言っていましたが、その彼が悔しがるほどのスゴイバンドに成長したのです。
 
混乱から立ち直り、90年代を生き抜く
バンド10周年を記念してリリースした初のベスト盤の成功で、全世界に新しいファンを増やした彼らは、ジョンが挑戦した俳優業の成功にも後押しされ、以降も安定して作品をリリース。同年代のバンドが皆ノスタルジックな再結成公演を売り物にする中、唯一彼らは新作をヒットチャート上位に送り込む力を保ち続けている。
【ムッシュから一言】
どんなバンドでも成功の後は必ず何らかの理由で危機を迎えるのが普通です。「ボン・ジョヴィ」の場合も暫しの時間、休養というか何というか。でも、この21世紀になってノスタルジックな再結成という事ではなく新作をちゃんとチャート上位に送り込んで活動しているのはスゴイことです。