Monsieur Voice / ムッシュ@Rock 

1999〜2017 携帯サイト"ARTIST NUDE"より

【カ】


 

カルチャー・クラブ

80年代ポップの申し子、カルチャー・クラブ
ここのところ80年代洋楽をメディアのあちこちで耳にする。これは80年代学生時代を過ごした今40台の働き盛りの連中が現在メディアの制作側に回っていることが大きい。その彼らをかつて熱くした80年代洋楽ブームの神髄はMTVと(日本では)小林克也の『ベストヒットU.S.A.』だったが、そこに登場したアーティストの中でも一際目立ち、かつ老若男女を問わず幅広いファンを掴んだグループ、それがカルチャー・クラブだ。ドレッドヘアと派手なファッションに身を包み、目を引き着けずにはおかないユニセクシャルなメイクアップと出で立ちのリード・シンガー、ボーイ・ジョージの存在のみがとかく取り沙汰されるが、彼らの作り出す楽曲もノーザン・ソウルの影響をポップに表現した極めてレベルの高いものだったことを忘れてはいけない。
【ムッシュから一言】
ボーイ・ジョージと言えば「カーマ、カマ、カマ」のあの曲を歌っている女装の麗人でしょ?ぐらいしか興味がなかったのですが、僕の予想どうりのアーティストに影響を受けていてさらにメイクアップ・アーティストだったと今回知ってまさに彼のキャラ構築プロセスが面白いですなぁ。
 
君は完璧さ
80年代初頭のロンドンはニューウェイヴの炸裂から数年、新たにロンドンのクラブ『ブリッツ』等を中心にグラマラスに着飾った連中がDJの回すダンスミュージックに踊り狂うニューロマンティック・ブームが盛り上がりつつあった。その『ブリッツ』の常連だったボーイ・ジョージはベースのマイキー・クレイグと共にセックス・ギャング・チルドレンなるバンドを組んでいたが、クラッシュやダムド等のサポート経験のあるドラマー、ジョン・モスと出会い、1981年カルチャー・クラブが誕生。ニューウェイヴ・ダンス風のシングル「White Boy」「I'm Afraid Of Me」は不発だったが、翌1982年リリースの3枚目のソウル・レゲエ・バラード風の「君は完璧さ」は3週全英No.1をマーク、アルバム『ミステリー・ボーイ』(1982)も全英5位のヒットアルバムとなりカルチャー・クラブを一気にスターダムに押し上げたのだった。
【ムッシュから一言】
僕の場合、キャラが濃くて退いた所もあったのですが改めて聴き返してみて、ブルーアイド・ソウルシンガーとしては大変な者だと再確認しました。
 
ついに英米のポップチャート制覇
続く「タイム」も全英3位と快進撃を続けるカルチャー・クラブは年末には全米にも上陸。「君は完璧さ」「タイム」(共に全米2位)の連続ヒットで完全に全米でも人気を確立した彼らは全米のみシングル「アイル・タンブル・4・ヤ」(9位)とアルバムのヒットで英米制覇を達成。1983年は続く「チャーチ・オブ・ザ・ポイズン・マインド」(英2位、米10位)を含む『カラー・バイ・ナンバーズ』をリリース。英でNo.1、米2位と大ヒットとなったこのアルバムからは彼らのポップ・センスを凝縮したような軽快なナンバー「カーマは気まぐれ」が英米でNo.1を記録して世界での彼らの人気を決定付けた。その後も「ミス・ミー・ブラインド」(米のみ5位)「ヴィクティムズ」(英のみ3位)「イッツ・ア・ミラクル」(英4位、米13位)と止まるところを知らぬかのような快進撃が続いた。
【ムッシュから一言】
例の「カーマ、カマ」=「カーマは気まぐれ」が大ヒットして傍目からはメデタシ!メデタシ!だったんだけどよくある話でドラッグに手を出してバンドは解散。
 
解散そして再結成
このまま快進撃を続けるかと思われたが『ウェイキング・アップ・ウィズ・ザ・ハウス・オン・ファイヤ』(1984)は全英で「ウォー・ソング」(2位)がヒットしたものの全米では今一つ。続く『フロム・ラグジャリー・トゥ・ハートエイク』(1986)の英米での不発と、時を同じくして発覚したボーイ・ジョージのヘロイン中毒、バンド内の緊張等から1987年には解散。その後ボーイ・ジョージはソロで「エヴリシング・アイ・オウン」(1987年全英No.1)や映画『クライング・ゲーム』の主題歌等のヒットを飛ばしたものの活動は地味に。1998年にはVH1スペシャルへの出演を機に再結成、アルバム『ストーリーテラーズ〜帰って来たカルチャー・クラブ』(1998)『ドント・マインド・イフ・アイ・ドゥ』(1999)をリリース、久々のシングル「愛を下さい」が全英4位の大ヒットとなり、その健在振りを見せてくれた。
【ムッシュから一言】
ソロでの活動は申し訳ないけど一切知らない。だけどとんでもない時にトンでもない所から復活してきそうな気配はあるね。

 キッス

ロックとはエンターテインメントだ!で大成功
時は1973年。NYで2人のミュージシャンが、顔にメイクをし奇抜なコスチュームを着て仕掛けとギミックで満載のエンターテインメント満点のステージというアイデアでバンドを結成したのが後に数々の大ヒットアルバムと全世界で今も衰えない人気を誇ることになるキッスの始まりだった。素顔を隠したメイクと派手なライヴで地道にファンを増やしていったキッスが一躍全米・世界でブレイクしたきっかけは、4作目となる初のライヴ『アライヴ!地獄の狂獣』(1975)のトップ10入りと、ライヴシングル「ロックンロール・オールナイト」の大ヒット(全米最高位12位)だった。
【ムッシュから一言】
1960年代だったと思うのですがパリのクーポールという名のレストランでミュージカル「ヘアー」の打ち上げか何かのパーティーで客の中に顔にメイク、そしてとても奇抜なコスチュームをまとった男性を見かけました。当時、そういう人を見たことが無かったのですごいインパクトを受けました。彼は何と、フランク・ザッパでした。僕はKissの事を考えるとフランク・ザッパの事を思い出します。
 
人気の絶頂とメンバーの不協和音
続いて有名な「デトロイト・ロック・シティ」を含む名盤『地獄の軍団』(1976)で完成度の高いハードロックサウンドとピーターのボーカルによる意外なバラードヒット「ベス」が大ヒット。相次いで『地獄のロックファイヤー』(1976)『ラブ・ガン』(1977)と脂の乗った作品を連発する一方、ヨーロッパ・ツアー(1976)、NY出身のメンバー念願のマディソン・スクエア・ガーデンでのライヴ(1977/2)、初の日本公演(1977/4)とライヴも次々成功させ、人気の頂点に立った。しかしこの頃からバンド内での軋轢が始まり、これを回避しようと1978年活動休止宣言。同時にメンバー全員がソロアルバムを同時発売するという暴挙に出た。
【ムッシュから一言】
人気の頂点に立っていた1977年に来日した時空港のロビーで待つファンの前になかなか姿を 現さなかった理由が面白い。彼等はどこの国にツアーしても機内で入念なメイクをしてから通関するのだそうですが、日本の通関は厳しいので一度メイクを落とす様に言われ、メイクを落とし通関してその後また入念なメイクをしてやっと姿を現した逸話を聞いたことがあります。
 
素顔の正体
活動再開と同時発表の『地獄からの脱出』(1979)ではディスコ風の「ラヴィング・ユー・ベイビー」がヒットはしたものの出来は散漫。次作『仮面の正体』(1980)を最後にとうとうドラムスのピーターが脱退。代わってエリック・カーが加入、発表したコンセプト・アルバム『魔界大決戦』(1981)は失敗、リード・ギターのエースもついに脱退してしまう。2代目ギタリスト、ヴィニーを加えた『暗黒の神話』(1982)に続いてキッスが考えた起死回生策はメイクを落として素顔を見せると言うもの。初素顔作『地獄の回想』(1983)はまずまずの売上を見せたものの往年の人気を取り戻すには至らなかった。
【ムッシュから一言】
彼らの武道館公演での話。例の花火を楽曲のシンコペーションに合わせて打ち上げるわけですが、初日に消防署がチェックに来て花火のその高さにクレームをつけた。対応につとめたスタッフがベトナム戦争の時の海兵隊火薬処理班のチーフだったらしく2日目からもっともっと高い花火が打ちあがったらしい。
 
オリジナルメンバー達の再会
『アニマライズ』(1984)ではギタリストが2回も交代するという混乱の中、80年代のキッスは迷走。久々のトップ10シングルヒット「フォーエバー」を含む『ホット・イン・ザ・シェイド』(1989)のヒットで意気上がるバンドを襲ったのはドラムスのエリック・カーのガンによる急死。悲しみを乗り越え新メンバーで『リベンジ』(1992)を久々のトップ10に送り込んだ彼等だったが、1995年MTVアンプラグドで再会したオリジナルメンバー達は再度メイク+オリジナルでの活動を選択。1998年に原点回帰の『サイコ・サーカス』を発表、アルバムチャート3位という大ヒットを記録。しかし最近またメンバー間の不和も伝えられ、2000年代のキッスの行方は不透明である。
【ムッシュから一言】
Kissは日本の歌舞伎に通じる何か不思議な魅力がある。それはレベルの高いロックンロール様式美だ。 クイーンの後期にも同じ事を感じた。しかし、しかし同日、同時間に世界の各都市でKissのコンサートが行われていても面白かったかもしれない。メンバーの中からメイクを落とし自分を主張する人が出て来てから僕は興味を無くしていった。ちなみにプラターズはまだ顔が割れていない。

 キャロル・キング

アイドル志望からソングライターへ
R&Rが盛り上がる1950年代に少女期を過ごしたキャロルは、周囲の友人たちの助力もあってシンガーの活動をスタート。その道ではスターになれなかったが作曲のパートナー、ジェリー・ゴフィンと出逢い、プロのソングライターとして2人で様々なR&Rアーティストへ作品を提供するようになった。
【ムッシュから一言】
僕がシンガーソングライターと言う言葉を始めて聞いたのは1970年代に入ってからだったけど、職業作詞作曲家は昔からたくさんいた訳で、まあ僕は当時キャロルキングとローラ・ニーロをそれだと思っていたのです。
 
夫婦コンビでアメリカン・ポップスの黄金期を支える
60年代前半は若いソングライターたちがしのぎを削ってR&Rの名曲を市場に送り出していた時期で、彼女も1960年にシュレルズが発表した「ウィル・ユー・ラヴ・ミー・トゥモロウ」のナンバー1ヒットで人気ソングライターの仲間入りを果たす。以降驚異的なペースでヒット曲を量産、"ポップス黄金期"に華を添える名曲を次々と生み出した。
【ムッシュから一言】
分数コードでプライベートな事を歌にするみたいな事をシンガーソングライターのアルバムに求めたみたいな僕がいましてそのアルバムのミュージシャン達は名人ばかりでかためるみたいのが最高でした。
 
離婚後アーティストとしての自我に目覚める
ビートルズが登場した60年代半ば以降も彼女の地位は揺らぐことはなかったが、ゴフィンとの結婚生活の破たんとロックの社会的な受け止められ方の変化から次第にアーティスト志向へと移行。仲間達とバンド「シティ」を結成し自らの心情を作品に託すようになった
【ムッシュから一言】
ところがよく考えてみるとこのキャロルキングが60年代の"ロック史上最も成功した職業作曲家"そして70年代の"ロック史上最も成功したシンガーソングライター"という2つの功績を残しているなんて...。
 
アルバム「つづれおり」が空前の大ヒット
70年代に入りソロ・アーティストに転じた彼女は2枚目のアルバム「つづれおり」で念願のブレイクを果たす。シングルとアルバムが同時にチャートの1位を記録し、新しい女性像を提示したキャロルはもはや職業作曲家ではなく、社会にメッセージを問い掛ける真のアーティストに変貌していた。
【ムッシュから一言】
「ユーブ・ガット・ア・フレンド」と言う曲はスゲー良かった。
リトル・エヴァの「ロコ・モーション」もかよ!
モンキーズのあの曲も?
みたいにもう一度聞きなおしてみようと思っています。

 ギルバート・オサリバン

見習いソングライター、レコード・デビュー
アイルランドに生まれ、イギリスで育ったレイモンド・オサリヴァンはビートルズらの音楽に触発されて作曲活動を開始、1967年には「ギルバート」を名乗りレコードデビューを果たした。その作品及びユニークなファッションは敏腕マネージャー/プロデューサー、ゴードン・ミルズの目にとまり、彼のもと音楽制作をスタートする。
【ムッシュから一言】
「アイルランドの歌織り職人」とはよく言ったもので、僕にとってギルバート・オサリヴァンはまさにそんなイメージです。トム・ジョーンズ、エンゲルベルト・フンパーディンク等を手がけた名プロデューサー"ゴードン・ミルズ"は1900年代初頭のファッションでオサリヴァンを世に登場させた。僕はまず彼のそのファッションに注目したのです。
 
「アローン・アゲイン」で全米チャートのトップに
最初のシングル「ナッシング・ライムド」が好評を得た彼は1972年に代表作「アローン・アゲイン」を発表、この曲はアメリカでナンバー1を獲得する大成功を収めた。続いて「クレア」「ゲット・ダウン」とイギリスでもナンバー1ヒットを連発し、当時有数のヒットメーカーに成長した。
【ムッシュから一言】
1972年「アローン・アゲイン」がアメリカでナンバー1になり、イギリスなどでも立て続けにヒットを重ねていた時期に僕はロンドンにいて、ロイヤル・アルバート・ホールで彼のギグを観る機会がありました。"心ウルウル系"の楽曲が多いので、コンサートが終わった後ホールから出てくるオーディエンスが皆、泣いていたのがとても印象的だった事を覚えています。
 
独自路線を歩むも、やがて停滞
ヒットはその後数年に亘って続いたが、70年代後半にマネージャーと袂を分ち、セルフ・プロデュースで作品を発表し始めるとやがてセールスは低迷。リリースされたアルバムはほとんど注目されることなく、80年代は音楽シーンの表舞台から姿を消した。
【ムッシュから一言】
彼も例に漏れずプロデューサー、マネージャー等との確執などでやがてセルフ・プロデュースの道を歩み始めるのですが、やはりそう上手くはいかないもので表舞台からは遠ざかってしまう。自分ひとりの才能だけだとつらいのかなぁ。
 
日本を中心に再び注目を集める
90年代初頭、TV等で盛んに「アローン・アゲイン」が流されていた日本で彼は再び注目され、92年にはTVドラマの主題歌に起用された「トゥモロウ・トゥデイ」が大ヒット。以降我が国ではコンスタントに新作の発表とツアーが実現しており、それらは熱心なファンにサポートされ続けている。
【ムッシュから一言】
1990年代初頭、日本人好みのメロディとストーリーを持つ「アローン・アゲイン」が何となくリバイバルしていた時に「トゥモロウ・トゥデイ」が大ヒット!今でこそ"癒し系"などと言う人は多いけど、彼は日本人が慕うタイプのキャラクターなんでしょう。

 キンクス

「変態」メジャーシーンに殴りこみ
レイとデイヴのデイヴィス兄弟を中心に活動していた「レイヴンズ」は、派手なステージングでロンドン中のパーティを荒らし回っていたところをレコードプロデューサーの目にとまる。その奇抜な個性を前面に出すためバンドは「キンクス(変態、ひねくれ者)」に改名され、3枚目のシングル「You Really Got Me」が大ヒット。その評判はブリティッシュ・ビートブームに沸くアメリカにも伝わった。
【ムッシュから一言】
英国だったからジョージ・ベストも生まれたし、デビッド・ベッカムも生まれた。英国だったからスターリング・モスも生まれたし、グラハム・ヒルも生まれた。英国だったからストーンズもビートルズも、そしてキンクスも生まれたのです。
 
ヒット曲を連発、しかしトラブルも山積
「You Really 〜」以降暫くはヒットを順調に飛ばし続けた彼らだったが、ツアーの先々で引き起こす暴力沙汰やトラブルのため、アメリカで3年間の演奏禁止処分に。他のライバルたちに差をつけられる。本国イギリスでもツアーに明け暮れる一方作品やマネージメントに関する裁判が続き、ヒットチャート上の成績も徐々に地味なものとなっていった。
【ムッシュから一言】
「You Really Got Me」「Set Me Free」「Tired Of Waiting For You」等々米国からのリズム&ブルースという輸入食材に自国のスキッフルの風味を効かせたお料理は「キンクスのコード弾き国」で生まれた最高のご馳走である。
 
難解な作品を次々と発表、カルトバンド化
度重なるトラブルにも関わらずレイ・デイヴィスの音楽性は作品毎に深みを増し、60年代後半から70年代前半にかけて現在はロックの古典と見なされている芸術性の高いアルバムを次々と発表した。しかし一方で「イギリス人気質」への執拗なこだわりは難解と評され、キンクスは限られた熱心なファンに支えられる「カルトバンド」となっていった。
【ムッシュから一言】
英国のロック・バンドは難解な作品を発表したり、いろんなトラブルを引き起こしたり・・。とにかく公私にわたりクリエイティブだからいつも世界中の若者の心を惹きつけるのです。
 
R&Rに立ち返り、強力なライブバンドとして復活
70年代後半、初期のパワフルなR&Rに立ち返り、精力的なライブツアーを再開した彼らは再びヒット曲を連発。同世代のどのバンドよりも活きのいいR&Rを演奏するキンクスはキャリア最大の成功を収めることになった。90年代半ば以降バンドは活動停止状態にあり、ファンは再びあの強烈なライブの再現を待ちわびている。
【ムッシュから一言】
20世紀後半の英国のロック・バンドは21世紀も生き続けるだろうし、新しい作品を発表し続けるだろう。キンクスにもそれを期待してます。Davies, Oh Yeah!!

クイーン

クイーン誕生
タンザニア出身のペルシャ人というコスモポリタンの極致のようなフレディとハードロック・バンド、スマイルのメンバーだったブライアンとロジャーが出会った1970年、クイーンは誕生した。彼らを凡百のロックバンドから一線を画したのはハードロックを基本にあらゆる音楽要素を詰め込んだシアトリカルな作品・ステージングとグラム・ロック的なスタイル。ストレートなデビュー作『戦慄の王女』(1973)に続く『クイーンII』(1974)で早くもそのオリジナリティが開花し「輝ける七つの海」が全英で大ヒット、3作目の『シアー・ハート・アタック』(1974)は驚くほどのバラエティに富んだ初期の名作で、ここから初の全米ヒットとなった「キラー・クイーン」が飛び出すに至り、世界中のロックファンにその名前を轟かせ、当時日本でもロックメディアを中心に早くも熱狂的なファンが増えていった。
【ムッシュから一言】
顔がですねぇ、無茶苦茶濃くてマッチョな体にレオタード風のボディースーツという強烈なリード・ヴォーカルがいるバンドとの出会いは確か70年代初めロンドンのライブハウスだったと思います。シンプルな編成だけどすごいアンサンブルの良いバンドだった。見た目的なこともあってか僕は少し引いていました。それでもギターのブライアン・メイとドラムのロジャー・テイラーは一目でファンになりましたよ。
 
名曲「ボヘミアン・ラプソディ」と世界的ブレイク
クイーンの強みである優れた楽曲能力が遺憾なく発揮され「70年代UKロックシーンを代表する名曲」とも言われる「ボヘミアン・ラプソディ」を含む『オペラ座の夜』(1975)は名実共にクイーンを世界的なロック・バンドの地位に押し上げた。以降『華麗なるレース』(1977)からは「愛にすべてを」、『世界に捧ぐ』(1977)からは「伝説のチャンピオン」、『ジャズ』 (1978)からは「バイシクル・レース」といったヒット曲を日英米を初め全世界でヒットさせ、1975、1976、1979年と相次ぐ来日公演など精力的なライヴ活動とも合わせ、70年代を通じてその人気を着実に積み上げていった。しかし70年代末期、彼らの音楽性にとってアンチテーゼとも言えるパンク・ニューウェイヴの台頭と共に彼らもバンドとしての再定義を迫られ始めていた。
【ムッシュから一言】
その後、1975年頃ロンドンに行くとラジオから一日中「ボヘミアン・ラプソディ」が聞こえてきて日本にも何回かツアーでやって来ましたが武道館でのLIVEの時、映画「CLOSE ENCOUNTERS OF THE THIRD KIND(未知との遭遇)」の中で大きなUFOが地上に降りて来るシーンのようなライティング演出をしていたのが今でも忘れられません。
 
新時代に新境地で勝負
80年代に入りリリースされた『ザ・ゲーム』は従来以上に多様な音楽性を詰め込んだ意欲作。ここから先行リリースされたネオ・ロカビリー調「愛という名の欲望」は見事に全米No.1(全英2位)となり、アルバムも初の全米No.1 を獲得。初めてシンセサイザーを意欲的に使ったファンク・ナンバー「地獄に道連れ」も全米No.1を獲得、クイーンは80年代のスタートを新境地のサウンドで見事に成功で飾った。しかし映画『フラッシュ・ゴードン』(1981)のサントラ挑戦が見事にコケたのがケチの付き初めで、その後は80年代を通じて人気は下降を辿り『ホット・スペース』(1982)『ザ・ワークス』(1984)『カインド・オブ・マジック』(1986)といった作品も往年のような大ヒットにはならず。そんな中再起を図るメンバーを襲ったのはフレディーAIDS罹患という凶報だった。
【ムッシュから一言】
やはり何と言っても「ボヘミアン・ラプソディ」はスゴイ!音程のある楽器はギターとベースだけ。プラス、ドラムとヴォーカルだけで高度なオペラをやってしまったのです。そして1977年の「ウィー・ウィル・ロック・ユー」。 この曲は僕の友人のアラン・メリルが作った「アイ・ラブ・ロックンロール」にインスパイアーされたのかなぁ?そして「伝説のチャンピオン」!この辺が僕には最高に好きな曲ですね。
 
さらばフレディー
最後までバンド活動に注力したフレディはアルバム『イニュエンドゥ』(1991)の久々の全英No.1、自らの心境を吐露するかのような「ザ・ショウ・マスト・ゴー・オン」の全英ヒット直後の1991年11月23日にHIV陽性であることを公表。その翌日45歳の波瀾万丈の生涯を閉じた。翌春ウェンブリー・スタジアムでのフレディ追悼コンサートにはデヴィッド・ボウイ、エルトン・ジョン、ジョージ・マイケル等新旧のフレディを悼むスター達が結集。時を同じくして映画『ウェインズ・ワールド』に使われた「ボヘミアン・ラプソディ」が英米で再ヒットし、クイーン再評価ブームが高まる中全米でリリースされたベスト盤『クラシック・クイーン』も大ヒット。フレディの残した音源を元に作成された『メイド・イン・ヘヴン』(1995)を最後に事実上バンドは活動を停止したが、2001年にはロックの殿堂入り。今もフレディの歌声は日英米のみならず全世界のファンに親しまれている。
【ムッシュから一言】
やはり、20世紀のロックンロールバンドの中で最高の中に入ると思います。21世紀も続けていて欲しかったバンドだし、あの濃いフレディーが亡くなったのはとても残念です。(P.S.)「ウィー・ウィル・ロック・ユー」はスポーツ讃歌だと思っていたのですが知人の話によるとフレディーがゲイの仲間に贈ったゲイ讃歌だそうです。(本当かなぁ?)

 コモドアーズ

ファンキーチューンでソウル界に殴り込み
70年代、ソウルといえばスローとファンキーだった。 今のようにDATで音出しして生は声だけというのでなく、 特にバンド形式で自ら演奏・振付までこなすボーカル&インストゥルメンタル・グループ、 というのが主流だった。中でも60年代末にアラバマ州タスキギで結成された 地元タスキギ・インスティテュートの同期生6人組によるコモドアーズは 名門モータウン・レーベルのいちローカルバンドから1974年ブチブチの インスト・ファンキー・チューン「マシンガン」の大ヒットで一躍全米ソウルシーンでの人気を確立。 続く「スリパリー」(1975)で見事R&Bチャートのトップに輝き、 折から日米で盛り上がりつつあったディスコ・ブームに乗り、 流行のダンスステップ「バンプ」の人気とも相まって、 日米のダンスフロアで彼らのファンキーチューンがかかりまくる事態となった。
【ムッシュから一言】
個人的に60年代からモータウン系よりスタックス系が好きだったので モータウン系ではシュープリームス以外はあまり興味がありませんでした。 70年代になって六本木、赤坂あたりのディスコによく遊びに行くようになってから ダンス音楽としてコモドアーズを知りました。
 
バラードヒットでポップ・シーンでも活躍
彼らのファンキーチューンはR&Bシーンのみならずポップ・シーンでもそれなりの人気を得ていたが、彼らがR&B/ポップの両シーンで確固たる人気を決定づけたのが、サックス担当のライオネル・リッチーのペンによる匂い立つようなミディアムバラード「スイート・ラヴ」(1975年R&B 2位/ポップ 5位)の大ヒット。
ファンキーチューンだけでなくバラードでも聴かせるソウルグループとしての評判を確立。しかしライオネル・リッチーのこの時期のコモドアーズにおける最大の功績は名曲バラード「イージー」(1977年R&B 1位/ポップ 4位)で「ファンクとバラードの2枚看板のコモドアーズ」という定評を完全に決定づけたことだろう。
もちろん彼らがこの時期「ブリックハウス」「あの娘が標的」(1977)といったブチブチファンクもきっちりヒットさせていたことは言うまでもない。
【ムッシュから一言】
カーリーヘアーやフラッシュな黒人ファッション、ちょっとドロくさいダンスステップ等々現在少しだけリバイバルしているとしても、やはりそれらとはスタンスを置くことにしています。
ヴィジュアルとは別にファンキーなナンバーは、やはりグリグリのグルーヴがあってスゴイです。
 
ライオネル・リッチーの台頭
バンドの作風の重要な部分がバラードで占められるようになるにつれ、そのバラードの殆どを手がけていたライオネルのグループ内での存在感が増していくのは避けられない事態だった。彼の作風も次第に「ソウルバンドがバラードもやってみました」的なものから脱皮し彼ら初のポップチャートNo.1ソング「永遠の人に捧げる歌」(1978)、同じくポップNo.1の「スティル」(1979)に至ってはティンパンアレー系ポップやカントリーの影響も聴き取れる作品に。
こうなってくると自分の才能の限界に挑戦してみたくなるのは無理もないところ。グループとはアルバム『イン・ザ・ポケット』(1981)で「レイディ」「オー・ノー」といった硬軟交えたヒットを飛ばす一方、ライオネルはダイアナ・ロスとの一発デュオ「エンドレス・ラヴ」(1981)をリリース。これがポップ・チャートNo.1を9週独走する超弩級のヒットに。
【ムッシュから一言】
コモドアーズもバラードナンバーが多くなって来てどんどん興味が無くなりました。
昔からバラード系音楽が大嫌いなのです。
特に、お涙ちょうだい音楽は勘弁して欲しいと思っております。
 
ライオネル脱退とその後
やっぱりというか当然というか「エンドレス・ラヴ」の大ヒットをきっかけに1982年ライオネルは脱退。その後80年代を通じてソロ作を出し続け、「トゥルーリー」(1982)「オール・ナイト・ロング」(1983)「ハロー〜出逢いの扉」(1984)「セイ・ユー・セイ・ミー」(1985)と4曲のポップNo.1ヒットを放ち、80年代のMTV時代の最も成功したR&Bアーティストの一人としてその人気を誇った。バンドの方も残ったトーマス・マックレアリー、ミラン・ウィリアムス、ウィリアム・キングらを中心に1985年マーヴィン・ゲイ、ジャッキー・ウィルソンら先達のR&Bの偉人たちへのトリビュート「ナイトシフト」(R&B 1位/ポップ 3位)を大ヒットし、その年のグラミー賞ベストR&Bグループ部門を獲得、ライオネル抜きのコモドアーズとしても大いにその存在を見せつけてくれた。がグループはこの曲を含む同名アルバムを最後にモータウンから移籍、1993年の『ノー・トリックス』を最後に新作を発表していない。
【ムッシュから一言】
なんだかんだ言ってもライオネルリッチーの作曲、プロデュースパワーは半端じゃないのでこれからも忘れた頃に大ヒットを飛ばすでしょう。
コモドアーズに関してはクエスチョンですが...
ラッパーを入れてヒップホップと往年のコモドアーズファンクのコラボなんて面白いかも。
その時はリッチー無しでOKかもしれませんね!!