音楽プロデューサー
 本城和治
 ほんじょう・まさはる

1960年代、ムッシュかまやつ(以下、ムッシュ)氏のご自宅に何度か遊びに行ったことがあるという本城和治氏。“ご本人は忙しくて不在でしたが、奥さまとお酒を呑みながら朝までお喋りした時もあってね。まだ息子さんが生まれる前の話です”と家族ぐるみでお付き合いしていた思い出も語ってくださった今回のインタビュー。ザ・スパイダース、そして、解散以降のムッシュ・ソロ活動初期時代を振り返る担当ディレクターは、今なお<かまやつひろし>の音楽を愛して止まないファンのひとりでもありました。
 


 
――本城さんはムッシュと同じ、1939年生まれですよね。
 
本城和治(以下、本城):はい。ただ、僕は12月生まれなので学年はひとつ下になります。日本ビクター(現:株式会社JVCケンウッド・ビクターエンタテインメント)に入社したのは大学卒業後の1962年。ビクター以外の洋楽を手掛けている部に配属となり、フォンタナやマーキュリーのレーベルを扱っているフィリップス・グループの仕事をするようになりました。リバーサイド・レーベルとも契約をしたので、最初は大好きだったジャズの担当になったんです。
 
――日本でも人気のジャズ・ピアニスト、ビル・エヴァンスのアルバム『ワルツ・フォー・デビイ』や『サンディ・アット・ザ・ヴィレッジ・ヴァンガード』も本城さんが初めて日本に紹介したとか。
 
本城:今じゃ名盤と言われていますが、当時は売れなかったですね。初回1000枚ちょっとぐらいですから(苦笑)。その後、ジャズだけじゃなく様々なジャンルのレコードを発売してね。例えば、ボビー・ヘブの「サニー」、ポールとポーラの「ヘイ・ポーラ」、イタリアの歌手、ミーナの「砂に消えた涙」、フランンス・ギャルの「夢見るシャンソン人形」等々。ムッシュも大好きだったスペンサー・デイヴィス・グループも僕が担当していました。でもね、洋楽ディレクターは海外の音楽を日本で広めるのが仕事ですから、実際にレコーディングの現場にいるわけではありません。来日したミュージシャンを使って録音をすることもありましたが、決して頻繁ではない。次第に自分もイチからレコードを制作し、世界に向けて発信したくなったんですよ。そんな矢先に、慶応大学の後輩でザ・フィンガーズというインストゥルメンタル・バンドのライヴを観たんです。サウンドは抜群だし、言葉の壁もないので、これなら世界に通用するのではないかとデモ・テープを録りました。成毛滋や高橋幸宏の兄、高橋信之などがいた良いバンドでしたが、結局、僕のところからレコードは出せず、諦めたそのタイミングで“ザ・スパイダースをやらないか”という話が来ました。1965年のことです。
 
――グループの存在は知っていましたか?
 
本城:その年の5月にクラウンからシングル「フリフリ」を出していたので名前は知っていました。ムッシュが撮影日に遅刻してジャケットに写っていないという逸話のあるあのシングルです(笑)。それはともかく、オファーがあり、早速、ライヴを観に行ったら、これが実に格好良くてね。音楽は洗練されているのにエンターテインメント性もある。すでにザ・スパイダースの世界が出来ていました。そこから彼等との付き合いが始まったんです。
 
――本城さんが最初に手掛けたシングルは?
 
本城:「ノー・ノー・ボーイ」(1966年2月発売)です。その後、「ヘイ・ボーイ」(1966年4月発売)、「サマー・ガール」(1966年7月発売)と続きます。ザ・スパイダースの曲は、ほぼムッシュが書いていたでしょう。そのどれもが洋楽的で、それまでの日本人が書いていないセンスに魅了されましたね。中村八大さんやいずみたくさん、ハマクラ(浜口庫之助)さんも格好いい曲を作っていましたが、やはり、歌謡曲寄りでしたから、そういった意味でもムッシュは日本のポップスにおいて先駆者と言えるんです。
 
――でも、最初に大ヒットした「夕陽が泣いている」(1966年9月発売)は、ムッシュが書いた曲ではないんですよね。
 
本城:作詞作曲、共にハマクラ(浜口庫之助)さんです。なぜ、この曲をザ・スパイダースが発表することになったのか、実は最近知ったんですが、ホリプロの創業者で当時、社長だった堀(威男)さんがハマクラさんとバーで呑んでいた時に“夕陽をテーマにした曲を作った”と耳にし、“先生、その曲をください!”とお願いされ、渡されたデモ・テープを田邊(昭知)さんがもらったという話です。ザ・スパイダースはメンバー以外の曲をオリジナルとして発表するのはその時が初めてで、ムッシュは後々、曲に関して否定的なことを言っていましたが、それは作曲者としての理想があったからだと思います。僕自身も最初は、ザ・スパイダース的なサウンドではないと感じたものの、イントロが非常にキャッチーですし、メロディも日本人好みなので内心、売れるのではないかと思っていました。
 
――結果的に大ヒットとなって!
 
本城:あの曲で彼等は音楽ファンだけでなく、お茶の間にも名前が浸透したんですよ。それまではシングルで5、6万枚、アルバムだと2、3万枚程度でしたからね。ディレクターとしては10万枚以上のセールスがなければヒットしたとは思えませんし、出来れば、もっと売れて欲しいという想いはありました。そんな中、「夕陽が泣いている」は70万枚以上も売れたんです。想像していた以上の大ヒットでした。その余波もあったのか、次のシングル「なんとなくなんとなく」も20万枚以上売れて嬉しかったですね。日本のスタンダード・ナンバーといってもいい名曲ですから! ムッシュが作曲した中で1番、多くのCMなどに使われたナンバーでもあり、今もテレビ番組『路線バスで寄り道の旅』のテーマ曲として使われています。
 
――では、ムッシュが書いた曲で1番、売れたザ・スパイダース作品を教えてください。
 
本城:「いつまでもどこまでも」(1967年発売)です。B面は「バン・バン・バン」、これが実数で35万枚ぐらいかな。次が「あの時君は若かった」(1968年3月)で約30万枚。次が「なんとなくなんとなく」(1966年12月)だったはずです。ただ、僕はシングルでヒットを出そうというより、アルバム・アーティストを日本で確立したいと考えていたので、ザ・スパイダースもあくまで結果としてシングルが売れたと感じているんですよ。
 
――新曲を出す際にはムッシュと音楽的なことを話し合ったりするんですよね?
 
本城:ザ・スパイダースの新曲は殆ど僕とムッシュのふたりで決めていましたから。アレンジはほぼムッシュがアイデアを出し、細かい部分は(大野)克夫ちゃんが譜面にしていたな。グループとしての方向性は田邊さんと相談するなどザ・スパイダースは役割分担がはっきりしていました。どちらにせよ、ムッシュがいなければザ・スパイダースの音楽は成り立たなかったでしょうね。
 
――ラスト・シングルは「エレクトリックおばあちゃん」(1970年9月発売)ですよね。
 
本城:当初、ラストになるとは思っていなかったんです。というのも、この曲のアイデアは僕でして、マチャアキ(堺正章)の個性が出るような面白い作品を出したくなり、作詞家の麻生ひろしさんに“ジャン&ディーンのヒット曲「パサディナのおばあちゃん」的な「○○のおばあちゃん」というテーマで歌詞を書いてよ”と依頼したのがきっかけなんです。完成した詞にムッシュが曲を付けたんですが、確か、仮のタイトルは「弘前のおばあちゃん」だったような気がします。
 
――ムッシュのご先祖様は弘前出身ですものね。
 
本城:えっ、そうなの? それは知らなかったです。とにかく、あの曲は後からムッシュが曲を付けました。それまではほとんど曲が先だったんですが。
 
――ところで、ザ・スパイダースが解散した後も本城さんはムッシュのレコード制作を続けていらっしゃいます。
 
本城:1970年に発売したソロ・アルバム『ムッシュー~かまやつひろしの世界』は多重録音を駆使した日本初のワンマン作品で、ザ・スパイダースが解散する前にレコーディングをしていました。最初に録ったのが「ミスター・タックス」、これが多重録音・第1号曲になります。次に「ソー・ロング・サチオ」、そしてもう1曲録った3曲に楽曲をプラスする形でアルバムを完成させました。ただ、僕が立ち合っていない曲もあるんですよ。知らないうちにムッシュがレコーディングを終えていて、後で聞かされるという(笑)。そうそう、生まれたばかりの息子さんの泣き声をカセット・テープに録音し、スタジオで再生して作った曲が「ムッシュ&タロー」です。ご長男が誕生されて嬉しかったんでしょうね。
 
――その後、アルバム『どうにかなるさ アルバムNo.2』(1971年発売)、ムッシュのお父様で日本のジャズ界の先駆者でもあるミュージシャン、ティーブ・釜萢さんとの共演作『ファーザー&マッド・サン』(1971年発売)、そして『釜田質店』(1973年発売)までご一緒されたわけですが、本城さんはムッシュの作る音楽のどんな部分に惹かれていたんでしょうか?
 
本城:彼の音楽は本当に幅広いでしょう? ロック的な要素があるかと思えば、フレンチの香りがしたり、もちろん、ジャズの匂いも感じさせた。そういう洋楽の美味しいエッセンスを自分なりに消化して曲作りに活かしているなあと思っていました。そのどれもがハイ・レベル。実際、リフ作りがとてつもなく上手いので“ムッシュは日本のチャック・ベリーだ”と僕は公言しているんです。ポップな曲ではコードの使い方が抜群で、そういった意味からもムッシュと大瀧詠一は日本のポップスの基盤を作った類い希なミュージシャンだと断言出来ます。それとね、ここのところ、はっぴいえんどが日本のロックの始まりだと言われていますが、“ザ・スパイダース、つまり、かまやつひろしはカタカナのロックを始めて、はっぴいえんどはひらがなのロックを始めた”と僕は言い続けているんですよ。グループ名がカタカナと平仮名ですから、そのままではあるんですけれどね(笑)。
 
 
取材・文 菅野 聖
 
本城和治(ほんじょう・まさはる)
1939年生まれ、東京育ち。洋楽ディレクターとして様々なヒット曲を世に送り出し、1960年代ポップスを日本に根付かせた。邦楽ディレクターとしても手腕を発揮、ザ・スパイダースやザ・テンプターズなどのGSグループをいくつも手掛け、その功績は計り知れない。さらに、マイク眞木、森山良子、長谷川きよし、井上順、尾崎紀世彦、大橋純子、石川セリなども担当。「バラが咲いた」「また逢う日まで」「メリージェーン」「別れのサンバ」など時代を超えて愛される曲を数多く生み出している。現在はCD/DVDの企画監修及び、『明日の友』(婦人之友社)で「あの歌をPlay back!」の連載、「大人のMusic Calendar」( http://music-calendar.jp/author/94 )でも執筆する等、フリーの音楽プロデューサーとして多方面で活躍中。