#007

 シンガー・ソングライター
大野真澄
 おおの・ますみ

今年70歳、通称“ボーカル”こと大野真澄さんが“マーク”こと堀内護さん、“トミー”こと日高富明さんと“GARO”を結成したのが1970年。ずば抜けたギター・テクニックとコーラス・ワークで音楽ファンを魅了し、「学生街の喫茶店」という大ヒット曲も世に送り出しました。実は、GAROが誕生したきっかけは、大野さんとムッシュかまやつ(以下、ムッシュ)氏の出会いがあったからです。2021年にはデビュー50周年を迎える大野さんに今回、約半世紀前のリアル・ストーリーを語っていただきました。
 



——大野さんとムッシュの出逢いを伺いたいのですが……。
 
大野真澄(以下、大野):その前にひとついいですか? 僕は、かまやつさんのことを“ムッシュ”って呼んだことはなくて。子供の頃、テレビで見ていた時から“かまやつひろし”さんは“かまやつひろし”さんだったし、初めてお目にかかった時も“かまやつです”と挨拶されましたから。だから、僕はずっと“かまやつ”さんと呼んでいました。そのかまやつさんとの初対面は僕が『ヘアー』に出演していた時です。
 
——1960年代後半から1970年代初頭にかけてアメリカで上演されていたミュージカル『ヘアー』の日本版ですね。初演は1969年12月。
 
大野:『ヘアー』に出演することになったのは、その直前に劇団<東京キッド兄弟商会>(後の東京キッドブラザース)の2作目『東京キッド』に出演したのがきっかけでね。当時、僕は絵の勉強をする為に上京したんだけれど、学校の先輩で友人でもあったペーター佐藤から“<東京キッド兄弟商会>の旗揚げ公演『交響曲第8番は未完成だった』のポスターを書いたので一緒に芝居を見に行こう”と誘われて鑑賞したの。そうしたら、終演後に主宰者の東由多加さんから“次の作品に出ないか”と口説かれて。
 
——それが『東京キッド』ですね。大野さんは<ボーカル>という役だったそうですが、大野さんご自身のニックネームがそのまま役名になっているという。
 
大野:ボーカルって呼ばれるようになったのは、同郷出身でもある絵の学校仲間から“高校時代、バンドをやっていたんだよね? 担当は?”と訊かれ“ボーカル”って答えたら、“じゃあ、これから大野のことはボーカルって呼ぼう”と即決されちゃったんだよね。正直な話、僕はイヤだったけど、以来、ボーカルと呼ばれているんだ。そんなことはまあ、いいや(笑)。でね、『東京キッド』の舞台を見た川添象郎さんやザ・タイガースを脱退した加橋かつみさんから『ヘアー』のオーディションを受けるようにと促されて、結果、合格しちゃったんですよ。それで、1969年12月5日から舞台に立ちました。
 
——この作品は当時、メディアからも大注目され大変評判になったと聞いています。
大野:結構、色々な方が見に来られましたよ。ザ・タイガース、ザ・スパイダースなど、グループサウンズ系の方たちはみんな来たんじゃないかな。内田裕也さんもいらっしゃってましたね。そういう人たちは楽屋にも顔を出すんですが、その時に初めてかまやつさんとお会いしました。どなたかに紹介され“かまやつです”って挨拶されて“あっ、かまやつひろしだ!”って思った(笑)。だって、こんな間近にテレビで見ていた人がいるんですから“えっ!”って感じでしょ。それに僕は高校時代に「ダウンハーツ」というバンドでグループサウンズの曲もカヴァーしていたから、あのグループの人がここにいるんだという驚きはありましたね。その後も、かまやつさんは何度も楽屋に来て声をかけてくれたんです。僕はおかまの役で、結構、目立っていたので顔を覚えていたみたい。
 
——大野さんは元々、グループサウンズが好きだったんですね。
 
大野:好きでしたよ。高校時代はビートルズ、ローリング・ストーンズ、アニマルズなどをコピーしていましたが、ライヴでやっても全然ウケないんだ。それで、グループサウンズをやり始めたんだけど、やっぱり、盛り上がるんだよね。スパイダース、タイガース、テンプターズ、モップスもやったな。スパイダースは5、6曲ぐらいカヴァーした。でも「バン・バン・バン」はやらなかったね。練習した記憶もあるけど、アレ、結構、リズムに乗るのが難しいんだよ。スパイダースのライヴは東京に出てきて、まだ、絵の勉強をしている頃に日劇ウエスタンカーニバルで見ました。
 
——さて、「ヘアー」の公演が1970年2月に終了した後、大野さんとムッシュは思わぬ再会をしたんですよね。
 
大野:その年の6月だったかな、マーク(堀内護)とトミー(日高富明)のふたりがライヴをやるっていうんで見に行こうと六本木を歩いていたら、いきなり、ベンツのデカイのが横に止まって窓がス〜っと空いたの。中から“ボーカル、ボーカル”って声が聞こえたんで、誰かと思ったらかまやつさんなんですよ。びっくりして“ご無沙汰しています”と挨拶したら、前置きなしにいきなり“コーラスとギターが上手くて、僕のバックをやってくれる奴、いないかな”って言うんです。“丁度今から、友だちのライヴを見に行くところなんですけど、ふたりとも上手いですよ”“じゃあ、彼らに伝えておいて”と言って、そのまま、車で去っていきました。それで、ふたりに話をしたら大喜び。だって、大スターのバックで演奏出来るんですからね。
 
——その時、大野さんはマークさんやトミーさんと音楽活動を共にするつもりはなかったんですか?
 
大野:なかったですね。ところがさ、その年の10月にフラワー・トラベリン・バンドの壮行会ライヴがサンケイホールであって、マークとトミーがロビーでアトラクションをやることになったんだ。で、僕の12弦ギターを貸して欲しいと言われたので会場に持って行ったら“何か1曲、一緒にやろう”と言われ飛び入りで歌ったの。それを見ていたザ・タイガースのマネージャーで、僕にしたら日本のブライアン・エプスタインだと思っている中井國二さんから“この際だから3人でやろうよ”と背中を押されて、一緒にやることになったんです。
 
——それで、GAROが結成されたんですね。
 
大野:僕らはすぐにナベプロと契約することが決まり、翌月の11月ぐらいからトワ・エ・モアの前座などの仕事も決まってさ。その頃、かまやつさんからも連絡が入り、彼のバックも務めることになりました。
 
——ムッシュがフロントで歌い、演奏とコーラスをGAROが担当したんですね。
 
大野:そうです。でも、かまやつさんはライヴでいつも、僕らの曲もやらせてくれました。バックでコーラスをする時のアレンジ? かまやつさんがその場で“アーアーアーでいいよね”って口ずさんだら、それをそのまま僕らが歌った(笑)。下のパートはコレ、上はコレ、そんな感じで決めていただけで譜面なんてないよ。ただ、かまやつさんは本当に色々なことを知っている人だなあと思ってはいました。ジャズも勉強していたからコードも凄い詳しくて、よくテンション・コードを使っていましたね。僕なんて、グループサウンズ、歌謡曲、ビートルズ一辺倒で、ロックもイギリスしか知らないし、ジャズなんてまったく興味ないから、かまやつさんが弾いたコードが歌に合っているのか、正直わかってなかったんだ(笑)。「我が良き友よ」もライヴだと、何を弾いているかかなり不明でしょ? そういうことをかまやつさんはずっと前からやっていたんです。
 
——大野さんが初めてレコーディングを体験したのもムッシュの作品ですよね?
 
大野:「四葉のクローバー」(1971年11月リリース)です。かまやつさんがソロになって3枚目のシングルを録音するというので曲を聞かせてもらい、ビクターのスタジオに行って、そこで何回か練習をして“せーの”で録ったの。それが春ぐらいだったかな。その後、7月ぐらいにGAROとして初めて「一人で行くさ」をレコーディングしてね。
 
——デビュー・シングル「たんぽぽ」(1971年10月リリース)のB面ですね。因みに、GAROはご自身のセカンド・アルバム『GARO2』(1972年リリース)で「四葉のクローバー」をカヴァーしていますね。
 
大野:自分たちが最初にレコーディングした曲をどうしてもアルバムでカヴァーしたかったんです。この時は逆にかまやつさんがコーラスを手伝ってくれました。1番高いところと1番低いところはかまやつさんが歌っています。そういえば、丁度その頃、かまやつさんに頼まれてラジオのジングルも録音したな。みのもんたさんがパーソナリティを務める番組のジングルで「おとこみのもんた」っていう変な曲(笑)。もちろん、かまやつさんが作った曲で番組名は何だったか、覚えていません。とにかく、気持ち悪いメロディーで曲は今でも忘れられない(笑)。
 
——GAROの活動と並行してムッシュのバック演奏も継続していたそうですが、折々で色々な話をされたんでしょうね。
 
大野:僕たちがかまやつさんに質問するというよりは、“最近、どんなの聞いている?”など、逆に訊かれることの方が多かったですね。当時、かまやつさんは33歳ぐらいなので、20代の若い奴らがどんな音楽を聞いているのか興味があったんじゃないかな。僕らはあの頃、西海岸に傾倒していたので“ジェイムス・テイラー、カッコいいですよ”とか、そういう話をするとすぐにリアクションしてくれて。多分、かまやつさんは創作者、アーティストとして、若い人たちがどういうモノに影響され、どんな音楽を聴いているのかということに興味があったんじゃないかな。ただね、ある時、“ボーカル、俺たち、これからどうなっちゃうんだろう?”って言い出した時はかなり驚きましたね。まだハタチそこそこの僕に“一応、マンションはあるけど貯金が〇〇しかないんだ。これといって財産もないし。これから仕事、続くかな”ってポツリと呟いたんですよ。大スター、かまやつひろしでもそういう心配をするんだって、あれは忘れられないですね。
 
——さて、アルバム『GARO2』からシングル・カットされた「学生街の喫茶店」がブレイクしたのは1973年でしたよね?
 
大野:アルバム、シングル共に発売したのは1972年の6月でしたが、翌年の3月にチャート1位になったんです。演奏はドラムが原田裕臣、ベースは細野晴臣、ギターは自分たちで弾いていて、井上尭之さんも少し弾いてくれました。アレンジは大野克夫さんです。最初、「学生街の喫茶店」(作詞:山上路夫、作曲:すぎやまこういち)を聞いた時、イントロが長いなと思ったけど、今聞くと、全然、そんなことはないよね。で、プロデューサーのミッキー・カーティスさんから“ボーカル、歌ってね”と言われて録音したんだけど、この「学生街の喫茶店」が大ヒットするまで、GAROは何かあるとかまやつさんに呼ばれてバックをやらせてもらっていました。ですから、ムッシュのバック・バンドはGAROが最初なんだよ。僕ら以降、かまやつさんはTHE ALFEEをはじめ、いろんな人たちとやるようになったけど。
 
——GAROが1番多くジョイントしたのはムッシュ、そしてアリスだとか。
 
大野:はい。僕らがブレイクした時、関西ツアーで前座をやっていたのがアリスです。ブレイク直前はオフコースが前座をしていたな。だから、みんな繋がっているんですよ。GAROを解散して、僕がソロでやるようになってからはTHE ALFEEがバックをやってくれていたし。
 
——ムッシュとロンドンに行ったのはこの頃ですか?
 
大野:1974年かな。当時、僕は毎年、ロンドンに遊びに行っていたの。GAROのファースト・アルバム『GARO』(1971年11月リリース)でベースを弾いてくれた山内テツ(b)も住んでいたので、彼に会いに行く目的もありました。同じ時期にかまやつさんもロンドンに行くというので向こうで落ち合った、いや、違うな、僕がロンドン行くと言ったらかまやつさんも行こうかなっていう流れだった気がする。細かいことは忘れちゃったけど、とにかく、ロンドンで会ったかまやつさんに誘われて、ステータス・クォーのライヴをウェンブリー・アリーナで見たのは覚えていますね。
 
——では、ムッシュの好きだったところを教えてください。
 
大野:全部、好きでしたよ。例えば、会った途端“どうよ〜”って言われるのは本当に好きだったな。ニッと笑いながら“どうよ〜”って言うんだけど、アレがいいんですよね。あと、誰とでもフレンドリーに接するところも好きでした。かまやつさんの人との付き合い方は本当に勉強になったな。要は常に普通なんです。驕り高ぶるわけでもないし、誰にでも普通、偉そうじゃない。そんなかまやつさんとたまたま六本木で偶然に会って、成り行きとはいえバックをやらせてもらえることになったから、今の僕がいるんですよね。あの時、かまやつさんが車を停めて声をかけてくれなかったら、僕は音楽をやっていなかったかもしれませんね。
 

取材・文 菅野聖
 
大野真澄(おおの・ますみ)
1949年生まれ、愛知県出身。
1970年11月、3人組グループ「GARO」を結成。1973年に「学生街の喫茶店」が大ヒットし、日本レコード大賞・大衆賞を受賞。1975年に解散。以降、1976年からソロ活動をスタートさせ、作家活動も開始。あおい輝彦に詞を提供した「あなただけを」が大ヒットするなど、多岐にわたる音楽ジャンルで活躍。プロデューサーとしても才能を発揮し、様々な作品を手掛ける。2004年からは伊勢正三、太田裕美とのユニット<なごみーず>の他、ソロ・ライブ、様々なアーティストとのジョイント・ライブなど、精力的に音楽活動を続けている。10月25日(金)には『70times70〜Birthday Special〜』を東京・丸の内にあるCOTTON CLUBで開催。
 
公式サイト
http://www.vocal-booth.com/