#001

  Guitarist
 横内(タケ)健亨
 よこうち・たけひろ

1954年生まれ。東京・神田育ちのベテラン・ギタリスト、横内健亨(以下、タケ)さんは高校生の頃からプロのミュージシャン生活をスタートさせ、10代後半、日米混成ロック・バンド<ウォッカ・コリンズ>に加入しました。そこで、ムッシュかまやつ(以下、ムッシュ)氏と出逢い、人生が一転します。共に過ごした時間を愛おしそうに語るタケさんのご自宅から徒歩10分程の場所にある明治17年創業のお蕎麦屋さん<神田まつや>で幾度もムッシュと杯を重ねたと目を細めます。お昼時に突然、電話がかかってきて“おいでよ”と言われ、駆けつけるといつもの席で焼き鳥や焼きのり、板わさ(わさびかまぼこ)を肴に日本酒を呑んでいたというムッシュ。シメはざるそば、その後にカレー丼を分け合って食べたことも珍しくなかったとか。そんな思い出の場所で、笑いを交えながら“あの日”を昨日のことのように話すタケさんの瞳には時折、キラリと光るモノが。
 


 
――今日も「神田まつや」は賑わっていますね。

横内タケ(以下、横内):この店は人気店なので、ランチ時は入り口に行列が出来るんですよ。ムッシュもちゃんと並んで店に入り、席についてから連絡をくれていました。後で知ったんですけど、僕が並ばずに入れるようにという気遣いだったんですよね。そういう人なんです、ムッシュって。

――ところで、タケさんは男性アイドル・グループ<フォーリーブス>のバック・バンド<ハイソサエティ->でプロ・デビューしたんですよね。

横内:高校生の時、<新宿アシベ>でジャニー喜多川さんにスカウトされたのがきっかけです。結構、女の子たちからキャ〜キャ〜言われましたけど、半年ぐらいでやめて、ロック・バンド<エンジェルス>を組みました。そのバンド・メンバーを通じて元ザ・テンプターズのドラマー、大口広司と友だちになったんです。ある日、赤坂にあったディスコ<ビブロス>で彼と偶然鉢合わせて“タケ、ギター、弾いているか”と聞かれたので“弾いているよ”と答えたら“じゃあ、明日、楽器を持って御苑スタジオに来いよ”と言われ、ヒョイっと行ってみたら、可愛らしい顔をした外国人がそれまで聴いたこともないようなコードでギターを弾いていて、これは只者じゃないと仰天しました。それがアラン・メリルです。

――1951年生まれ、ニューヨーク出身のロック・ミュージシャンで、<ウォッカ・コリンズ>のヴォーカリスト&ギタリストとして大活躍された方ですよね。世界的に有名なジャズ・ヴォーカリスト、ヘレン・メリルの息子さんとしても知られています。

横内:彼が余りにもカッコいいギターを弾くので、僕は思わず“ベースを弾くよ”と言ってしまいました。ギターより弦が少ないから簡単に弾けると思ってね(笑)。そうしたら“「バン・バン・バン」と「のんびりいくさ」の2曲を覚えろ”と大口広司に言われ、すぐさま練習! その後<キャンティ>に連れて行かれました。

――ムッシュが足繁く通っていたイタリアン・レストラン!

横内:“会わせたい人がいる”と言われ、案内された店の奥に黒い帽子を被り、ヘビ革のロンドンブーツをバキーンと履いてジャックダニエルをロックで飲んでいる兄さんがいて“うわっ、ジミー・ペイジとキース・リチャーズが飲んでいるお酒だ!”と興奮しながら、その人の顔を改めて見たらムッシュでした。とにかく佇まいが格好良くてね。全体的なトーンは低めなのにどこか派手さもあって見とれちゃいましたよ。その僕を指して、大口広司が“今度、ベースを弾いてもらうタケ”と紹介し“じゃあ、明日からよろしくね”とひと言。“明日って何ですか?”と聞いたら“2時に日比谷野音に入って”と言われてびっくり。

――いきなり、日比谷野外音楽堂でライヴですか?

横内:無茶苦茶な時代ですよね(笑)。あの時はニッポン放送主催、ラジオ番組絡みの音楽イベントで、いくつかのフォーク・グループに混じって、僕ら、ロック・バンドも出演したんです。確か、名義は<かまやつひろしとウォッカ・コリンズ>だったんじゃないかな。勿論、舞台に立った時は興奮しましたよ。僕にとっては初めての野外ライヴですから。でも、心底感激したのは、その後<ウォッカ・コリンズ>がソロで行なった新宿厚生年金会館でのライヴです。緞帳が上がった瞬間、客がウワ〜っとステージに押し寄せてきて、その光景を目にして僕、涙が出ちゃいました。こんなにもたくさんの人が僕らを待っていてくれたんだって、もう泣けて泣けて。顔を見られたくなくて後ろ向いてベースを弾いていたのを今もはっきりと覚えています。

――<ウォッカ・コリンズ>時代のムッシュはどんな感じでしたか?

横内:格好いい、優しい、そしてお洒落! 誰に対しても分け隔てがありませんでした。例えば、ギター1本持って平気でアマチュア・バンドと演奏しちゃう。そういうところも格好良かったな。僕が出逢った時、ムッシュはまだ30代前半でしたけれど、“仕事が終わると飯食いに行こう”と自ら声をかけ、バンドのメンバーやマネージャー、時には僕の友だちも一緒に焼き肉屋さんなどに連れて行ってくれるんです。支払いは全部、ムッシュ。あんな真似、出来ないですよ、僕には。

――タケさんが出逢った頃から晩年に至るまで何も変わっていないんですね。

横内:ただ、僕が<ウォッカ・コリンズ>に入った頃<鬼のかまやつ>という噂があって、いろんな人に“かまやつさん、怖いだろう?”と聞かれました。もしかしたら、スパイダース時代は厳しかったのかもしれませんね。僕は1度も怒られたことがなかったですし、周りにも優しかったですけど。

――ところで、大人気だった<ウォッカ・コリンズ>はなぜ解散したのですか?

横内:アラン・メリルがいきなり渡英しちゃったんです、本当に突然(笑)。で、アランがいなくなり、僕がギターを弾くことになったので、以前、一緒にバンドをやったことがある左利きのベース弾き、石井ジローに声をかけました。“明日、空いている?”“うん”“「バン・バン・バン」と「どうにかなるさ」という曲、知っている? 今日、家で教えるから泊まりね〜”と誘い、ひと晩で教えて、そのまま、朝10時の新幹線で大阪の現場に連れて行っちゃった(笑)。そう、僕と同じ目に合わせたわけです。その日はアランがいないので<ウォッカ・コリンズ>の曲はやらずにムッシュの曲を演奏して、その流れで僕らはムッシュのバック・バンドを務めることになりました。それが<オレンジ>です。

――タケさんがギター、ベースは石井ジローさん、キーボードは山本達彦さん、ドラムは浅野良治さんですよね。

横内:あの頃も毎日が楽しかったなあ。当時、ムッシュは大阪でライヴも出来るBAR<スタジオ・ムッシュ>というお店を名前貸しでやっていたんですが、月に1回ぐらい、出演もしていて、その時、ムッシュに肩車をしてもらってギターを弾いたりしてね。

――ムッシュがタケさんを肩車するんですか?

横内:僕を担いで客席をまわるんです。内心、申し訳ないと思っていましたよ。だって、僕が弾いているギターがムッシュの顔にゴンゴン当たっちゃうんですから。それでもイエ〜イって大騒ぎ! そうそう、その頃、ムッシュは<1/2>という洋服屋もやっていました。こちらも名前貸しでね。そこが発売した黒の文字で<Monsieur>と書かれたグレーのトレーナーが大ヒットして、赤坂東急ホテルに店を構えていたんです。僕はそこで20代半ばの2〜3年、バイトもしていました。

――その頃、リリースされたアルバム『スタジオ・ムッシュ』(1979年)にもタケさんも参加していますよね。レコーディング中のムッシュというのは?

横内:ほぼ人任せです。他のミュージシャンのアルバムをプロデュースする時も何もしない(笑)。でもね、プロデューサーというのは良いところを引き出すのが仕事だと思うし、そこにいるみんなを気持ちよくさせることが大事ですから、それでいいんですよね。というよりも、ムッシュはその人が表現したモノに一切、NGを出しませんでした。ムッシュから“ダメ”という言葉を聞いたことはなかったなあ。音楽的なアドヴァイスも特になかったですけど。そうだ、強いていれば“音がデカイ”と言われたことがあります(笑)。でも、基本、自由でした。

――それにしても、タケさんの20代はムッシュ一色だったんですね。

横内:だから30歳になった頃、僕の方から離れたんですよ。このままムッシュにおんぶに抱っこじゃ、ギタリストとしてマズイと思い、1度、裸になろうと決心したんです。その辺りから<TENSAW>というバンドを始め、スタジオ・ミュージシャンとしての仕事も随分、やらせてもらいました。

――1990年代に入ってから、またお付き合いが復活したそうですが?

横内:“タケ、ギター、持っておいでよ”とお声がかかるようになって、ムッシュのライヴにゲスト出演するようになりました。大笑いしたのが“俺、やっと「我が良き友よ」の歌詞を覚えられたんだ。あれ、6番まであるから大変なんだよ”と亡くなる2年前ぐらいに言ったんです。冗談なのか本当なのか、わかりませんけど、笑いましたね。

――ところで、ムッシュの曲で1番のお気に入りは何ですか?

横内:全部好きですが、やっぱり「どうにかなるさ」かな。あの曲を聞くと涙が出ちゃう。だってね、スパイダースが終わり、結婚もされて、かまやつさんが人生の岐路に立った時の曲でしょう。泣けるよなあ。僕ね、嬉しかったのは、ムッシュと森山(良子)さんの3人でご飯を食べている時、“ムッシュのこと、オジキと呼んで良いですか?”と聞いたら凄く優しい顔をして“いいよ”と言ってくれたんです。あの時はグッときましたね。出会った頃は、かまやつさん、その後、ムッシュ、むっちゃんと呼んでいた時期もありましたけど、最後、オジキと呼ばせてもらえて本当に感謝しています。だけど、まさか会えなくなるとは思っていなかったから、亡くなったと知った時は力が抜けてしまい、献杯しかないと家で飲み過ぎました。それで、夜中、コケてあばら骨を折っちゃって、ホント、俺、馬鹿ですよね。でも、ムッシュだけは不死身のように生きてくれるんじゃないかと心のどこかで信じていたんです。

――はい。

横内:僕はね、ヨボヨボになって車いすに乗ったムッシュを支えてあげたかったんですよ。そんなことしか僕には恩返しが出来ないと思っていましたから。だって、後にも先にもあんな人はいないですよ。頭の先から爪先まで優しさで覆われている人って他に思い付かないでしょう? あとね、あの人の手って凄く柔らかくて可愛いんです。フニャっとしているんですよ。その手で訳のわからないコードを弾くんですよね。いつも洒落たコードを探していたのもあの人の魅力だな。そういえば、ムッシュの部屋の天井には代理コードの一覧表が貼ってあったっけ。

――そうだったんですね!

横内:今、改めて思うんです。ムッシュというのはマインドがロックで生き方はエンターテインメント、そして、音楽性はジャズだったなと。ああ、ムッシュに会いたいなあ。
 
 
取材・文 菅野 聖
 
横内(タケ)健亨
1954年生まれ、東京都出身。
中学時代にギターをはじめ、高校生で<ハイソサエティー>に加入。ロック・バンド<エンジェルズ>を経て<ウォッカ・コリンズ>に参加。解散後は<オレンジ><TENSAW>などで活躍。野口五郎、佐野元春、矢沢永吉、宇崎竜童、レベッカ、山下久美子など、様々なアーティストのサポ-トも務める。現在は自己のバンドを中心に演奏活動を行なっている。