#005

 音楽家
細野晴臣
 ほその・はるおみ

“はっぴいえんど(細野晴臣、大瀧詠一、松本隆、鈴木茂)”がデビュー・アルバムを発表したのは1970年。当時、彼らの音楽にいち早く注目したのがムッシュかまやつ(以下、ムッシュ)氏でした。その後、メンバーそれぞれと親交を持ち、例えば、2019年の今年、デビュー50周年の節目となる細野氏とも長い間、お付き合いが続いていました。今回、メール・インタビューで伺ったムッシュとの思い出、そして、細野氏がムッシュから受け継いだものとは一体?
 


 

――細野さんとムッシュの親密度が増したのはいつ頃ですか?
 
細野晴臣(以下、細野):“はっぴいえんど”以降です。TropicalやExoticな音楽に興味を示していただき、スタジオに呼ばれたりしました。狸穴(現・麻布)のご自宅に招かれて、音楽以外の面白い世間話をしたこともあります。
 
――細野さんはムッシュのどんなところに魅力を感じていたのでしょうか?
 
細野:ロカビリー時代からテレビで拝見していて、その歌声に惹かれていました。ミッキー・カーチスさんと会話するムッシュが面白かったことも忘れられません。ユーモアと生真面目さが同居しているようなムッシュは、いつも自由で愛すべき“バンドマン”の大先輩でした。ムッシュの音楽体験は本当に豊かだったと思います。
 
――そんなムッシュが在籍していたザ・スパイダースに対してはどのような印象をお持ちでしたか?
 
細野:多くのグループ・サウンズとは一線を画して、コピーでも流行歌でもない、オリジナリティがある存在だと感じていました。演奏も曲も良く、特に「バン・バン・バン」や「フリフリ」のユニークさは群を抜いていて、いまだに輝いています。1番のお気に入り曲ですか?「バン・バン・バン」かな。ギターとドラムのリズムが刺激的で僕もカヴァーしたくなるんですよ。
 
――ところで細野さんは“はっぴいえんど”時代に音楽イベント等でムッシュ(当時はかまやつひろし名義)と同じステージに立たれたことも多々あったようですが、ソロ活動をスタートさせた頃のムッシュについて思い出すことといえば?
 
細野:当時、ムッシュはリー・ドーシーの「Ya Ya」というニューオリンズのヒット・ソングをカヴァーしたり、カントリー&ウエスタンの古典的な名曲だったレフティ・フリーゼルの「Mom And Dad's Waltz」を歌っていたりと選曲が素晴らしく、古き良き音楽を知り尽くした“先生”でもありました。芸能界と音楽界の中間にいて、何事にも束縛されない自由な立場で“ミュージシャン”を貫いていたように思います。 
 
――さて、“はっぴいえんど”の解散コンサートでもある音楽イベント(1973年9月21日に文京公会堂で開催された<CITY Last Time Around>)の司会はムッシュだったそうですね。
 
細野:実は、緊張していて余裕がなかったせいか、この時の記憶がスッポリ抜けてしまっているんです。ただし、重鎮のムッシュが司会を買ってくださり、当時の若い世代の音楽を応援してくれているという気持ちだけははっきりと覚えています。
 
――では、ムッシュがユーミン(荒井由実)&“ティン・パン・アレー”(細野晴臣、鈴木茂、林立夫、松任谷正隆)と共演された『サンデースペシャル~セブンスターショー』(TBS系:1976年3月14日放送)に出演した時のエピソードをお話いただけますか? 
 
細野:ショー形式でのテレビ出演は初めてだったと思うんですが、ムッシュが振り付けをされたり、僕らも一緒に踊ったりと気楽に楽しみました。みんな、楽器を持てばすぐに弾き始める“バンドマン”だったのでリハーサルもそれほどやりませんでしたね。そういえば、その時、ムッシュは僕に“自分のやってきたことをもっと大事にしたほうがいい”と助言してくれたんですよ。そのひと言で僕は過去(“はっぴいえんど”)を省みるようになったんです。
 
――細野晴臣&イエロー・マジック・バンドのアルバム『はらいそ』(1978年)には、ムッシュとムッシュのお父様であるジャズ・ミュージシャンのティーブ・釜萢氏も参加されています。
 
細野:ハワイや北米の日系音楽に興味があり「Japanese Rhumba」を紐解いたら、ジョージ島袋さんとティーブ・釜萢さんの存在が重要なことを知って、ムッシュを通じ、ティーブ・釜萢さんに歌っていただくことになりました。ディーヴさんにも色々なお話をもっと聞いておけばよかったのですが、この時はそういう時間がなかったんです。
 
――そういえば、ムッシュは細野さんにティーブ氏のアルバム・プロデュースを依頼していたと耳にしたことがあります。ムッシュが細野さんを心から信頼していたことがわかる逸話です。
 
――そうでしたか、そんなことがあったとは……。今なら積極的にやりたいと思いますが、当時の力量では自信がなかったのかもしれません。返す返すも残念です。自分に不甲斐なさを覚えます。
 
――1975年に発表した“かまやつひろし”名義のアルバム『あゝ!我が良き友よ』には細野さんが楽曲提供及び編曲された「仁義なき戦い」(作詞:松本隆)も収録されています。
 
細野:あの曲はスライ&ザ・ファミリー・ストーンのようなアプローチを前提に生まれました。そういうファンクなスタイルは初めてだったはずで、当時の音楽界では異色だったと思います。今、なかなか聞けるチャンスがありませんよね。
 
――CD化されていますので、是非、多くの人に聞いていただきたいです。ところで、ムッシュと最後に会ったのはいつですか? 
 
細野:2016年頃、どこかライブ会場の楽屋でお話しました。当時、表参道にある<CAY>というクラブで自分が開催していたライブに出てくださいとお願いしたんですよ。というのも、古き良きロカビリーなどを一緒にやりたかったんです。でも、それが実現することはありませんでした。とても残念です。
 
――では、ムッシュを思い出す時、まず、浮かぶのはどんなシーンでしょう?
 
細野:音楽に向かう時の真剣な眼差しとは裏腹に、音楽仲間と集う時の嬉しそうな笑顔です。“いいかげんな自分”を演じていた面も好きでした。ムッシュはどこにも属さないミュージシャン、そのバンドマン気質をぼくも受け継いでます。ムッシュの本『ムッシュ!』を買って読んだら“ロックのビートが4ビートと8ビートの中間だ”というようなことをスパイダース時代に発見していた記述があり、それを知っている先人がムッシュだったことに新鮮な驚きを覚えました。それにしても、ムッシュともっともっとお話をしておけばよかった……。遠慮してると時を逃してしまう、今、そのことを痛感しています。
 
――最後に余談ですが、昔、ムッシュにコンドームを見せられたことがあったそうですね。
 
細野:ムッシュが何を考えて僕にコンドームを見せてくれたのか、いまだに謎です。若い未熟者への性教育だったのかもしれませんね(笑)
 
 
細野晴臣(ほその・はるおみ)
1947年生まれ。東京都出身。
1969年<エイプリル・フール>でデビュー。1970年<はっぴいえんど>結成。1973年、ソロ活動を開始、同時に<ティン・パン・アレー>としても活動。1978年<イエロー・マジック・オーケストラ(YMO)>を結成、さらに、歌謡界での楽曲提供も手掛け、プロデューサー、レーベル主催者としても精力的に活動を行う。YMO散開後はワールド・ミュージック、アンビエント・ミュージックを探求する他、作曲・プロデュースなど多岐にわたり精力的に活動している。最新アルバム『HOCHONO HOUSE』(2019年3月リリース)が現在好評発売中。
 
公式サイト
http://hosonoharuomi.jp/