#008

作曲家/編曲家/プロデューサー
武部聡志
たけべ・さとし

ムッシュかまやつ(以下、ムッシュ)氏のバック・バンドのメンバーとなり、プロのミュージシャン・デビューを果たした武部聡志さんといえば、日本を代表する超売れっ子プロデューサーです。“ムッシュのことを語り出したらキリがない、数日、いや1週間あっても足りないぐらいです”と言いながら、心に閉まっていた日記のページを捲ってくださいました。“音楽を生業にしている人たちというのはそれぞれ美学があるから絶対、馬鹿にしてはいけないし、否定してもいけないということをムッシュの姿勢から教わったんです”と話す武部さんは時折、目元をそっとハンカチで押さえていました。

 


 
――武部さんは子供の頃から音楽家を目指していたのですか?
 
武部:いえ。僕は、麻布中学を経て麻布高校に入学したんですが、成績が324人中323番だったんです(笑)。普通の大学には行けないだろうと先生から言われたので、受験科目の少ない音大の試験をいくつか受けることにしました。合格した音大の中で1番、いいなと思ったのが国立音楽大学の教育学部教育音楽学科。入学したのは1975年です。
 
――ということは、中学受験をされたんですね。
 
武部:はい。自分で言うのもなんですが、小学校時代の僕は、住んでいた地域で1、2を争う神童で(笑)、それでも猛勉強して超進学校と言われている麻布中学に入りました。ところが成績は320人中120番という有様だったんですよ。それで、もう勉強はいいやといきなりドロップアウト。丁度その頃、学生運動が激しくなっていて、僕らも大学生を真似てヘルメットを被り座り込みなんかをしていました。体制に対する批判というのはロックの基本ですから(笑)。ただ、座り込みといっても暴れるわけでもなく単に座り込んでいるだけなので機動隊の人たちに“お家に帰ろうね、ボク”なんて優しく諭された記憶があります。……こんな話、これまでしたことないな(笑)。
 
――貴重なエピソードです!
 
武部:高校も自由な校風で制服もなかったんですよ。それで、僕はロンドンブーツを履いて、ラメのジャケットを着て通っていました(笑)。当時はギターを弾いていて、バンドではサディスティック・ミカ・バンドやT・レックス、デヴィッド・ボウイのコピーをしていましたね。イギリスのスタイリッシュなロック、ちょっとアカデミックで文化度が高い感じのするグラムやプログレに傾倒していたんです。なんせ、見た目がカッコいいモノに惹かれていました。同窓の1年後輩に僕ら同様、アマチュア・バンドをやっていた森村ヒロシという奴がいて、ある日、“兄貴はプロのミュージシャンだから家に楽器が色々あるぞ”と言うんです。実際、森村家を訪ねたら、なんと本物のメロトロンがあって驚いたのなんのって。訊けばお兄さんはかまやつひろしさんや南正人さんなど、いろんな方々のバック・アップをしているピアニストの森村献さんだと判明しました。それが大学2年生の時です。
 
――森村献さんといえば1954年生まれ、“ピアノと編曲のマエストロ”と呼ばれている国内外で活躍中のミュージシャンです。
 
武部:献ちゃんとも親しくなり、彼もメンバーだったかまやつさんのバック・バンド<オレンジ>のメンバー(横内タケ、石井ジロー、山本達彦、浅野良治)とも知り合いました。その頃から僕は<スタジオJ>でバンドの練習をするようになり、初めてかまやつさんとお会いすることになるんですが……。
 
――<スタジオJ>というのは?
 
武部:プロ・ユースの貸しスタジオで東京の並木橋にありました。当時、他のスタジオにはない(ハモンドオルガン)B3をはじめ、様々な楽器があって、ユーミン(荒井由実、現:松任谷由実)や忌野清志郎さんなどもそこでリハーサルをしていたんです。本来、アマチュアには貸していませんでしたが、僕らの友人のお父さんが出資していたのでスタジオが空いている時は使わせてもらえたんですよ。そんな矢先に山本達彦さんがソロ・デビューすることになり、ムッシュのバンドにキーボードの欠員が出て、メンバーにならないかと声が掛かりました。元々、僕はグループ・サウンズが大好きでしたし、ムッシュを尊敬していたので、これは絶好のチャンスだと二つ返事でOKしたんです。心のどこかでプロを夢見ていたけれど、その入り口がどこにあるのか解らない、そんな状況だったので、かまやつさんのバンドに入ることで扉がひとつ開くと思ったんですよね。参加してからは献ちゃんとツイン・キーボード体制で、状況に応じて鍵盤楽器がふたりだったり、どちらかひとりだったり。
 
――最初のライヴは?
 
武部:ラジオの公開録音です。通りすがりのお客さんを相手にするようなステージで、そういう時は必ず1曲目が「テーマ」と呼んでいた1分ぐらいのイントロダクションでスタート。お客さんを煽ったところで2曲目は「あの時君は若かった」に繋げます。この流れはお決まりでした。アレンジは、アルバム『ムッシュ・ファースト・ライヴ』(1978年リリース)の演奏をベースにしていて、例えば、スパイダース時代にやっていたストレートなロック・チューンをフュージョン寄りに演奏していましたね。ムッシュっていつも時代の空気を纏うのが得意じゃないですか。それは音でもファッションでも何でも。だから、あの頃もスパイダースの曲をノスタルジックにやるのではなく、時代の装いを纏って演奏していたんです。うん、最先端の音楽を届けている気分でした。何より、ムッシュはミュージシャンが楽しくなる環境を作ったり、ベストな演奏を引き出す天才なので、僕らも実力以上のパフォーマンスが出来たんです。そういう意味ではミュージシャンでありながらもプロデューサー的な匂いをあの頃から発していました。
 
――初レコーディングはどの作品ですか?
 
武部:アルバム『スタジオ・ムッシュ』(1979年リリース)です。当時、レコーディングというのは、売れている編曲家がアレンジをし、スタジオ・ミュージシャンが演奏するというのが一般的でした。でも、この時、ムッシュは自分のバンド<フラット・アウト>のメンバーで録音したいと言い出したんです。僕は通学していた国立音大から銀座まで高速を飛ばして音響ハウスというスタジオに行きました。ブースの中を見たら、ムッシュとムッシュのお父さんであり、ジャズ・シンガーのティーブ釜萢さんのふたりがマイクに向っていて、その絵は今も目にしっかりと焼き付いています。
 
――同年に発売されたアルバム『アップ・イン・ザ・パイナップル(パイナップルの彼方へ)』にも武部さんは参加していますよね。
 
武部:僕が大学4年の時にハワイで録音しました。2週間ぐらい滞在したんじゃないかな。レコーディングは現地のミュージシャンも参加し、夜は仲間の家で宴会三昧。結局、ハワイで全てを録り終えることが出来ず(笑)、帰国してから箱根の<ロックウェル>という今となっては伝説のリゾート・スタジオに泊まり込んで完成させたんですよ。
 
――さて、1980年に武部さんはご自身の会社<ハーフトーン・ミュージック>を立ち上げます。
 
武部:ある時、かまやつさんに“ミュージシャンとは別のレールも考えた方がいいぞ、ミュージシャンだけだと食えなくなる時が来るから”と言われ、僕はミュージシャンのためのオフィスを作ろうと思い付きました。というのも、当時、ミュージシャンの地位が余りにも低いと感じていたからです。フリーランスなのでクレジット・カードは作れないし、ギャラを踏み倒されることもある。会社にすれば法人同士の契約になるので、きちんと請求も出来ますよね。それで、かまやつさんのバック・バンドのメンバーを母体にミュージシャン10名ぐらいで会社を作りました。事務所を東京の飯倉片町にしたのは、歩いて行ける距離にかまやつひろし事務所と田辺エージェンシーがあったから(笑)。
 
――それから飛躍的にお仕事が広がったようですが。
 
武部:かまやつさんを通じて田辺エージェンシーさんから数多くの仕事をいただきました。当時、所属していたアーティストは全員、ご一緒したといっても過言ではないと思います。近所のイタリアン・レストラン<キャンティ>で打ち合わせをすることが多く、ユーミンともこの店で知り合いました。全て、かまやつさんが作ってくれたご縁です。
 
――その後の武勇伝も伺いたいところですが、一気に時計の針を進めます。武部さんが幹事を務めたムッシュの還暦パーティーについてお話ください。
 
武部:お陰様で僕はユーミンのバックをはじめ、いろんなアーティストのアレンジやプロデュースをするようになり、音楽業界でキャリアを積むことが出来ました。そろそろムッシュに恩返ししたいなと思っていたので、1999年にユーミンとムッシュの還暦パーティーを企画したんです。ただ、彼女から音楽家だけでお祝いしたいという意見があり、その会にはマネージャーさんたちにもご遠慮いただきました。それでも飯倉にあったライヴも出来るロシア料理店<ボルガ>に200人ぐらいは集まったんじゃないかな。僕の知る限り、日本の音楽史上、あれだけの最強メンバーが集結したパーティーは過去、ないと思います。メディアの立ち入りは厳禁、ムッシュには“とにかく来てください”とだけ伝えていました。
 
――ムッシュの誕生日は1月12日ですが、パーティーは11日だったとか。
 
武部:12日になった瞬間にみんなで“ハッピー・バースデー”をしたかったんですよ。それでスタートは前日の夜6時、だったかな? そこから出席したミュージシャンによるライヴが延々続くわけです。しかも、ムッシュの曲シバリ。誰がどの曲を歌うか、全て僕が考えました。宴もたけなわ、夜中0時になった瞬間、吉田美奈子さんが「ハッピー・バースデー」を唄うという構成! 
 
――その時、ムッシュは……。
 
武部:(一瞬、言葉を詰まらせ)……泣いてました。
 
――相当、嬉しかったんでしょうね……。そして、武部さんはムッシュのアルバム『1939〜MONSIEUR(サンキュー・ムッシュ)』(2009年発売)のプロデュースを手掛けます。
 
武部:次は70歳で恩返しをしよう、その時はアルバムという形に残したいと思っていました。ムッシュとムッシュを敬愛するアーティストが一緒にパフォーマンスするコンセプトを立て、ご本人には“棺桶に持って行けるような作品にします”と口説いたんです。そうしたら“任せるよ”と言ってくれたので、選曲、アーティスト選び、参加ミュージシャンなど、全て決めさせてもらいました。今、思い返しても良いラインナップだと自負しています。
 
――レコーディングの時、ムッシュはどんな表情をされていましたか?
 
武部:ちょっと照れくさそうでしたね。でね、『1939〜MONSIEUR(サンキュー・ムッシュ)』のブックレット写真を見てください。アルバム『スタジオ・ムッシュ』のインナー写真と同じ並びで撮影したんです。そう、バック・バンド<フラット・アウト>のメンバー+当時のスタッフも交えた30年振りのショットなんですよ! 是非、皆さんにも見比べて欲しいなあ。そしてこの時、決めたんです。僕はムッシュの80歳も絶対にお祝いしようって。
 
――存命なら今年(2019年)、傘寿でした。
 
武部:例えば、80組のアーティストが出演するライヴなんていうのも出来たかもしれないのに、それが不可能になってしまったことが残念でたまりません。でも、僕が生きている間に必ずやムッシュを冠にした音楽イベントをやりたいと思っています。
 
――そういえば、2017年2月27日に東京国際フォーラム ホールAで武部さんの還暦を祝したコンサート『武部聡志 Original Award Show ~Happy 60~』が催されましたよね。武部さんをリスペクトするアーティストの素晴らしいパフォーマンスが繰り広げられた後、武部さんご自身からムッシュに対する感謝の言葉が述べられ、さらに、豪華出演者による<ムッシュかまやつメドレー>が披露されました。
 
武部:クライマックスをムッシュ・メドレーにしようと提案してくれたのは、ショーの演出をしてくださった松任谷(正隆)さんです。あの日、本当はムッシュにも参加していただきたかったのですが、オファーした時はすでに体調が芳しくなかったので、本番当日、森山良子さんがムッシュの書いたお手紙を持って来てくださいました。ステージ上で開封し、みなさんにも紹介出来て感無量でしたよ。後で知ったのですが、2月27日、ムッシュはすでにほとんど意識がなかったそうです。それでも、終演後に良子さんはコンサート音源を病室に持って行ってくれて、ムッシュの耳元に近づけたとか。そうしたら、微かに反応したと(目元をハンカチで押さえながら)明らかに、聞こえているのがわかったと教えてくれました。
 
――亡くなったのはその2日後、3月1日でした。
 
武部:僕はあの日、ユーミンのツアーで名古屋にいたんです。良子さんからメールが届き、訃報を知り、一緒にいた松任谷(正隆)さんとユーミンに伝えました。そして、次の日の夜のライヴでユーミンは普段、絶対にアンコールではやらない「中央フリーウェイ」を唄ったんです。
 
――「中央フリーウェイ」は元々、ムッシュのために書いた曲ですものね。それにしても、ムッシュが亡くなった日に松任谷ご夫妻と一緒にいらっしゃったなんて……。
 
武部:縁だと思わずにはいられません。亡くなる直前に自分の還暦祝いでムッシュ・メドレーを披露出来たことも不思議ですし。僕ね、ムッシュから色々なモノを託されているような気がしているんです。表には出さなかった音楽業界に対する意思を受け継いだというか。そういった事も汲みながら今後も活動を続けていきたいと思っています。
 
――では、武部さんにとってムッシュとはどんな存在だったのでしょう?
 
武部:僕は父を早くに亡くしているんですよ。麻布中学に入学したのを見届けて彼はあの世に逝ってしまいました。その麻布の進学コースから外れ、音楽に傾いていった自分を世の中に送り出し、音楽家として誕生させてくれたのがムッシュです。だから、僕にとってはもうひとりの父親のように感じているんですよね。
 
 
取材・文 菅野聖
 
武部聡志(たけべ・さとし)
1957年生まれ。東京都出身。
国立音楽大学在学時より、かまやつひろしのバック・バンドに参加し、プロのミュージシャンとしてのキャリアをスタート。以降、キーボーディスト、コンポーザー、アレンジャー、さらにはプロデューサーとして数多くのアーティストを手掛ける。1983年に行われた松任谷由実のコンサート・ツアーを皮切りに音楽監督を全て担当している他、吉田拓郎など多数のコンサートでも手腕を発揮。ドラマ、映画、テレビの音楽番組でも大活躍、ラジオ番組のパーソナリティも務めている。著書に『すべては歌のために ポップスの名手が語る22曲のプロデュース&アレンジ・ワーク』(リットーミュージック)がある。
 
公式サイト
https://www.htmg.com/management/satoshi-takebe/