#009

ベーシスト
加藤 充
かとう・みつる

通称“かっぺちゃん”と周囲から親しみを込めて呼ばれているザ・スパイダースのベーシスト、加藤充さんは2020年3月3日で86歳。今回、ムッシュかまやつ(以下、ムッシュ or かまやつひろし)氏との思い出を話してくださるということで埼玉県所沢市の喫茶店でお会いしました。ザ・スパイダース時代の写真、取材記事、出演台本&フライヤーなど、たくさんのお宝資料を抱えてお見えになった加藤さんから伺ったエピソードの中には、メンバーだから知り得る事実も!
 


 
――加藤さんはザ・スパイダースの中で最年長なんですね。

加藤充(以下、加藤):うん。グループで活動していた時は4歳、トシをサバ読んでいました(笑)。なぜなら、スパイダースが最初に所属したホリプロ(ホリプロダクション)の創業者、堀(威夫)さんから“昭和9年生まれ?今日から昭和13年にしろ”と言われたんだよ(笑)。そういえば去年(2019年)、田辺の昭(田辺昭知・田邊昭知)ちゃんから呼びかけがあり、メンバー全員で食事をしたんだ。その時、順(井上順)が“かっぺちゃんは一体、何歳?”って訊くの。どうやらずっと僕のトシを知らなかったみたい。だから“戌年だよ”と答えたら“犬が3匹か”って大笑いされてね。順とマチャアキ(堺正章)はひと回り下の戌年なんです。かまやつさん? 僕の5コ下。でも、芸能界では先輩になるので“さん付け”で呼んでいました。この世界、上下関係はトシではなく芸歴ですから。

――ところで、加藤さんはお寿司屋さんでの修業を辞めてスパイダースのメンバーになったとか。

加藤:僕はね、同志社高校時代から<ゲーリー石黒とサンズ・オブ・ウエスト>に参加してプロ活動をしていたの。そこで(大野)克夫ちゃんと出逢ったんですよ。(同志社)大学に入ってからも京都のベラミというジャズ喫茶(今でいうライブハウス)でウエスタン(・ミュージック)を演ったり、米軍キャンプで演奏していてね。小坂一也さんや、すでにソロで活躍していたかまやつさんのバックをやったこともあります。あの頃のかまやつさんは本当に可愛い声で歌っていたんだ。そんなある日のこと、克夫ちゃんがスパイダースに引き抜かれ、僕は音楽をやるのがつまらなくなってしまった。大学も中退していたし、実家の寿司屋を継ぐことにしたの。ただ、握力があるせいか、巻き寿司なんてコロコロ転がるぐらい硬くて食べられたもんじゃないんです(笑)。結局、出前持ちをしていたんだけど、克夫ちゃんからスパイダースに入らないかと電話があり“2年間だけなら”という条件付きでOKしました。そして、コントラバスを持って夜行列車に乗り、上京したんです。

――当時はウッドベースだったんですか?

加藤:そうだよ。初期の頃のスパイダースはダンスホールでアート・ブレイキー&ザ・ジャズメッセンジャーズの「モーニン」や「ブルース・マーチ」なんかを演っていたんだ。

――ジャズ!

加藤:うん。デイヴ・ブルーベックの「テイク・ファイヴ」なんかも演奏した。ただ、当時、ギターの(井上)堯之(スパイダース時代は孝之:2018年5月2日他界)はアドリブが全然出来なかったから、僕と克夫ちゃんのふたりでリズムを刻みながらレクチャーしたの。教えたっていうと語弊があるけど朝から晩まで延々、練習。アイツは努力家だったよ。でね、スパイダースはジャズもやったけど、ロックやポップスの洋楽曲を本当にたくさんカヴァーしていたの。流行歌手のバック演奏もやっていたんだよ。正式加入する前のかまやつさんをゲストに迎え<かまやつひろしとザ・スパイダース>という名義でジャズ喫茶に出演したこともありました。

――その後、ムッシュがメンバーとなり、井上順さんも参加。スパイダースは7人編成となりました。

加藤:銀座ACB(アシベ)やテネシー、新宿ACB(アシベ)、池袋ドラムなどを拠点に演奏していたの。浅草の新世界で演った時なんてお客はたったの4人だった。まだ売れる前とはいえメンバーより客が少ないんだもの、あの光景は忘れられないね(笑)。キャバレーでも演奏したけど誰も音楽を聴いちゃいないから、ああいう場所で演るのはやめようって話になったんだ。

――そして、スパイダースは遂に1965年、シングル「フリフリ」(作詞作曲:かまやつひろし)でデビューします。

加藤:クラウン・レコードが拾ってくれたんです。決まるまで、いくつものレコード会社に断られました。僕らだけじゃないんだよ、今でこそ大物と言われている歌手も結構断られていたからね。それぐらい、あの時代はレコード1枚出すのが大変だったんだ。で、ご存知の通り、「フリフリ」のレコード・ジャケットにはかまやつさんが写っていません。遅刻してスタジオに来なかったんだけど、レコード会社の人が“6人でも7人でも変わらないから”とカメラマンを促して撮影しちゃったんだ(笑)

――当時のムッシュは遅刻魔だったそうですね。

加藤:それで、田辺の昭ちゃんから“仕事の時は迎えに行って連れて来てくれ”と頼まれました。当時、僕は練馬に住んでいて、電車でかまやつさんの自宅がある新宿に行くんだけど、家に着いた時に彼は起きるものだから、結局、ふたりで遅刻(笑)。“嗚呼、また間に合わないな”と内心思いながら、かまやつさんの愛車、オースチン・ヒーレーの助手席に乗って現場まで向かうのが恒例でした。

――遅刻ばかりしていたムッシュのことを軽蔑したり、イヤになったりしませんでしたか?

加藤:かまやつさんはスパイダースにとって居ないとマズイ存在だったんです。音楽センスがずば抜けていたので、みんな、かまやつさんをリスペクトしていたの。それと、あの笑顔を見ると、どんなに遅刻しても許せちゃうんだよね。かまやつさんはいつも笑っていましたから。演奏している時も目が合うとニコってね。愚痴を言うこともなかったし、しょんぼりしているのを見たこともないな。外タレと演っても“負けないぞ”って感じでいつも前向きでした。

――スパイダースは様々な外国人ミュージシャンのオープニング・アクトを務めていたと聞いています。アストロノウツやハニーカムズ、ザ・サーファリーズ、そして……。

加藤:ピーター&ゴードンやアニマルズ等々。ビーチ・ボーイズの前座をやった時は大いに盛り上がったんだけど、スパイダースの演奏後に客の半分以上が帰っちゃったんだ。あの頃、日本では僕たちの方がビーチ・ボーイズより人気があったんです。そうだ、僕がエレキベースにチェンジしたのはベンチャーズの前座を演ったのがきっかけです。ウッドベースじゃ音が通らない、太刀打ち出来ないと思い知ってね。でも、エレベに変えたばかりの頃はピックを使いこなせなくて苦労したよ。今は逆にウッドベースが弾けなくなっちゃったけどね。そんなわけで当時は“外タレの前座といえばスパイダース”と言われていたし、だから、ビートルズの武道館コンサートの時もオファーをいただいたんです。結局、僕らは辞退し客席で楽しみました。日本でヒットする前から彼らの曲を耳コピして演奏していたぐらい、大ファンだったからね。

――さて、スパイダースのオリジナル曲はムッシュ作のナンバーがたくさんあります。

加藤:初期の頃は控え室で曲を書いていましたよ、かまやつさん。出来上がると克夫ちゃんと一緒に味付けしながら仕上げていました。意外なコードがバンバン出てきて、それを全部、暗譜しなくちゃいけないから覚えるのが大変だった。あの頃は譜面を見ながら演奏したり歌おうものなら“プロじゃねぇ”と言われましたからね。かまやつさんの作った曲で1番好きなのは「ノー・ノー・ボーイ」(作詞:田邊昭知、1966年リリース)です。発売当時は売れなくね。後年、“この曲を出すのは早過ぎたな”とかまやつさんは言っていました。「ビター・フォー・マイ・テイスト」(作詞:川喜多和子、1966年リリース/アルバム『ザ・スパイダース・アルバムNo.1』収録)も気に入っています。雰囲気がいいでしょ。「黒ゆりの詩」(作詞:橋本淳、1968年リリース)を歌うかまやつさんも好きだったな。あの曲はイントロのためだけにかまやつさんは新しい楽器を買ったんです。

――ところで、1966年にスパイダースは初のヨーロッパ・ツアーを敢行しています。

加藤:6ヵ国、20日間のツアーでした。お金が無いからマネージャーもボウヤも付けず、メンバー7人だけで各国を回ったんです。記者会見、新聞・雑誌の取材、イギリスのテレビ番組『レディ・ステディ・ゴー』にも出演したんだよ。ライヴも行い、サイン攻めにあってね、あの盛り上がりは本当に凄かった。英語が話せたかまやつさんは通訳も兼務していました。個人的に忘れられないのは、向こうに着いた途端、かまやつさんから“髭を生やした方がいい”と言われ、髭剃りを取り上げられたこと。要は僕の見た目がミュージシャンぽくないからイメチェンさせたかったんです。それだけで終わらず“髭に似合うから”と言ってレイバンのサングラスを買ってくれて。仲間って素晴らしいと思いました。

――渡欧中に「夕陽が泣いている」(作詞作曲:浜口庫之助、1966年9月リリース)が大ヒット! 帰国したスパイダースは一躍大スターとなっていたんですよね。

加藤:羽田に着いたら大勢の人たちが待ち構えていたので、同じ飛行機に外タレが乗っているのかと思ったよ。ところが、僕たち目当てだと解かってびっくり。ヨーロッパにいる時にも“売れている”という情報は入っていたけど、かまやつさんは“そんなはずはねぇ”と言っていたし(笑)。それからが大変。自宅にも女の子が押し寄せて電車移動が出来なくなってしまったんだ。キャアキャア言われるのは慣れていなかったから戸惑ったよ。

――仕事もかなりハードだったみたいですね。テレビ&ラジオ、映画、そしてライヴ。例えば、歌人で劇作家の寺山修司氏が構成、舞台監督を手掛けたコンサートも行っていたと今回、初めて知りました。加藤さんにお持ちいただいた台本やフライヤーを拝見すると1部が「ポピュラーナンバー」と題したステージ、2部が寺山さんの書き下ろし脚本によるスパイダースのお芝居、3部は再びライヴで「スパイダースのオリジナルから」をテーマにした内容。

加藤:この構成台本で全国ツアーをしました。リハーサルでは寺山さんから“声が小さい!”と怒られた記憶があります。時代が時代だけに映像は残っていないんですよ。

――スパイダースが解散してからの加藤さんは、スタジオ・ミュージシャンとして音楽を続けていたんですよね。例えば、ムッシュのアルバム『どうにかなるさNo.2』(1971年リリース)は全曲、ベースを担当されています。

加藤:ビクターのスタジオに3日間入ってレコーディングをしました。かまやつさんは“イントロどうしようか”とみんなに意見を求めたりして、凄く楽しい録音でした。ただ、“ブルースは1拍ずつ、コードを変えてね”と言われて僕はちょっと慌てちゃったけど(笑)。

――プレイヤーとして3年程活動した後、タレントさんのマネージャーなど裏方を経て保険会社に就職されたそうですね。

加藤:芸能界から身を引いたんです。楽器も一切触っていませんでしたが、1981年に田辺の昭ちゃんとかまやつさんから連絡があり、スパイダースを再結成して『サヨナラ日劇ウエスタン・カーニバル』に出演しようと言われ、快諾しました。本番が終わり、アルバムを作る話も持ち上がったんだけど立ち消えになり、みんなそれぞれの生活に戻ったんです。誰とも連絡を取らずにいた僕は周囲から行方不明扱いされ“かっぺちゃん、どこにいるの?”とラジオで呼びかけらたりもしてね。気にしてくれるのは嬉しいけれど、今更、芸能界に戻るつもりはなかったから、そのまま放っておいたんです。そうしたら、ある日、スパイダースの夢を見たの。僕がメンバーみんなに声をかけるんだけど誰も喋ってくれない夢。振り向いてもくれないんだ。物凄く淋しくなっちゃって、しかも、そういう夢を何回も見るようになって怖くなってね。それで、田辺の昭ちゃんに謝りの手紙を書きました。すぐに電話がかかってきて“明日、この場所に来い”と言われたので行ってみると、なんと順の還暦パーティーだったんです。

――ということは2007年ですね。

加藤:そうなるのかな。あの日はメンバー全員が揃っていたから“音信不通にしていてごめんな”って謝ろうとしたんだけど、田辺の昭ちゃんが“そんなことはいいから横に座れ”と言ってくれて嬉しかったです。更にその後、かまやつさんと田辺の昭ちゃんから連絡があり“スパイダースの再結成ライヴを2日間、ホールでやる予定だから練習しておいて”と言われ、その数日後にクロサワ楽器からヘフナーのベースがアンプと一緒に送られてきたんです。多分、かまやつさんが手配してくれたんじゃないかな。“かっぺちゃん、1日1時間は練習しろよ”と電話があり、すっかりその気になっていたんだけど、みんなのスケジュールが合わず、再結成コンサートはお流れ。でも、あのベースとアンプを貰ったお陰でまた音楽をやろうと思えたんです。

――そして、2009年に現在も活動している<かっぺちゃんオールスターズ>を結成したんですね?

加藤:その少し前に地元のライブハウスに行ったら、いきなり「フリフリ」をやらされてね。ところがサビが出てこなくて“本当にスパイダースにいたの?”と冷やかされたんです。あれは悔しかった(笑)。カヴァーしていた洋楽曲は覚えているのにスパイダースのオリジナル曲は忘れているんだもの。でも、恥をかいたことで俄然、やる気になったの。それから再始動したんです。

――加藤さんは今年、86歳! 本当にお元気ですよね。

加藤:朝食はバナナとヨーグルト。お酒は元々、飲まないし、タバコは5、6年前にやめました。それ以外、特に健康に良いことをしているつもりはないけど結構、歩く方かもしれないね。昨日も気が付いたら1万6千歩だった。

――それはかなり歩いている方だと思います。ところで、ムッシュのお別れ会(2017年5月2日)ではスパイダースも演奏を披露され、参列者の方々が堺さんのMCに大笑いしながら、目に涙を浮かべていました。

加藤:久し振りにみんなが集まって演奏出来て凄く嬉しかった。でも、かまやつさんがいないんだよ……。寂しくてね。プレイ中も音の幅が狭く感じたよ。僕さ、かまやつさんが亡くなったと知った時は本当にショックだったの。だって、前の年の12月にブルーノート東京で行われたマチャアキのディナー・ショーでかまやつさんは元気に飛び入りして歌っていたじゃないですか。それを見ていたから病気は治ったんだと安心していたし、だから余計に亡くなったと知った時はショックもショックで……。

――ムッシュとのラスト共演は?

加藤:東京・江古田のライブハウスだから2015年かな。「あの時君は若かった」(作詞:菅原芙美恵、作曲:かまやつひろし、1968年リリース)を一緒にプレイ出来て本当に良かったよ。僕はかまやつさんの歌やチャーミングな動きがとても好きだったんだ。もし、今、再会出来るなら? そうだなあ、かまやつさんが運転するオースチン・ヒーレーにもう一度、乗りたいね。ハンドルを握っているかまやつさんも最高にカッコ良かったんだよ。そういえば、スパイダースのみんなと仕事でハワイに行った時、かまやつさんの運転でキャデラックに乗ったこともあったな。マチャアキが“そこ右!”なんて叫んでいたっけ(笑)。こうして振り返るとスパイダースは他のバンドに真似できないようなことばかりやっていたと思います。メンバー全員、個性があったし、何より、ムッシュの作ったナンバーには当時の日本の音楽にはなかったフィーリングが漂っていた。田辺の昭ちゃんが叩くドラムも魅力的だったしね。ちょっとはみ出して早くなるところが好きだったんだ。僕はスパイダースの演奏がどんどん走っていく時に最高の幸せを感じていたんだよ。
 
 
取材・文 菅野聖
 
加藤 充(かとう・みつる)
1934年3月3日生まれ。京都出身。
中学時代から聖歌隊に入り、ボーイ・ソプラノを担当。同志社高校時代に同志社大学のフォギー・マウンテンボーイズに誘われ、本格的に音楽活動を開始する。<ゲーリー石黒とサンズ・オブ・ウエスト>に参加してからはプロのミュージシャンとして精力的にライヴを行い、自己のバンドでも大活躍。実家の寿司店を継ぐために音楽活動を中断するが、大野克夫に誘われてザ・スパイダースの一員に。1970年の解散後はスタジオ・ミュージシャン、タレントのマネージャーなどを経て保険会社に勤務。近年は再び、ライヴ活動を行っており、現在も2009年に結成した<かっぺちゃんオールスターズ>やグループサウンズの仲間とのジョイントライブを定期的に開催している。