Monsieur Voice / かまやつひろしインタビュー

『Hotwax vol.4 日本の映画とロックと歌謡曲』より / 安田謙一

ムッシュかまやつ=かまやつひろしという音楽家について、レコード・デビュー(60年2月)から現在に至る、ほぼ半世紀に渡る活動を語るとき、自伝『ムッシュ!』(日経BP社)など一部の例外を除き、多くは、64年から6年に渡り在籍したザ・スパイダースを中心に捉えたものが目につく。その中では、今年、BS-FUJIで放映された『HIT SONG MAKERS〜栄光のJ-POP伝説〜』は、とても素晴らしい出来で、バンドの個性と、その中でのかまやつのユニークな存在を楽しく再確認させていただいた。それを引き継いで、とは言わないが、今回は、70年代のソロ時代に限定してお話をうかがうことにした。
ちょうど、10年に9枚のアルバムを発表している。スパイダース時代に自主的に始めた一人多重録音を発揮した『ムッシュー かまやつひろしの世界』(70)、作詞家、山上路夫が、たとえばトワエモアでの仕事では見せることのなかったアナザー・サイドの才気で、かまやつの見えざる心情を代弁した『アルバム NO.2』(71)、父、ティーブ釜萢との共同アルバム『ファザー&マッド・サン』(71)、テレビドラマ出演でのイメージを借りて、筒美京平ら職業音楽家の作品を多数取り上げた『釜田商店 NO.3』(73)、大ヒット「我が良き友よ」収録、はっぴいえんどら、日本の70年代ポップス人脈総出演による豪華な『ああ、我が良き友よ』(75)、音楽評論家、中村とうようが「日本人には珍しいホンモノのシティ派ロックンロール」と絶賛したライヴ盤『ムッシュ・ファースト・ライヴ』(78)、フュージョン/AOR時代の風をモロに反映した『WALK AGAIN』(78)、タモリもカメオ参加する遊びココロ満載の『スタジオ・ムッシュ』(79)、ハワイ録音、レイドバック感覚溢れる『パイナップルの彼方へ』(79)…と、それぞれ、激変する日本の音楽シーンの動きを反映しつつ、かまやつのフレキシブルな音楽性を見事に「記録」している。ひとつひとつ、アルバムごとの特性について年代順に語っていただくことで、音楽性の多角性をなぞってみる。
 
 ●『ムッシュー かまやつひろしの世界』
 
まったくの趣味でやったんですけれども、スパイダースのレコーディングやった後、当時スタジオ代が高かったですから、何時間か余ったその時間を頂いて自分でやってたんですね。それまでも自分の家で、ギター一本でテープレコーダー二台置いて、物凄くプリミティブな形で多重録音っていうのをやっていたんですよね。それを実際スタジオでやってみたいな、と思ってて、ドラムを録る前に、メトロノームってあるでしょ? あれをまず録音しちゃって。実にプリミティブなんですけど、自分としては新しいことを発見したような感じでね。
 
———「二十才の頃」は、なかにし礼さんと安井かずみさんのデュエットですね。
 
ええ、この頃よく3人で一緒に遊んでて。3人で、安井かずみさんの家のリビングルームみたいなところで作っちゃって。もちろんレコーディングにはちゃんとスタジオ来てもらって歌ってもらったんですけど。
(曲目表を見ながら)福沢エミ(後述される福沢幸男の妹)さんは、ずっとニューヨークにいらっしゃって、「ニューヨークじゃ今は灰皿は紙でできてんのよ」って。それで「ペーパー・アシュトレイ」っていう曲ができたんですよ。「雨上がりと僕」っていうのは、加橋かつみがタイガースを抜けて一番最初にフランスでレコーディングしたとき、僕が曲を提供したんですよ。かつみさんのはオーケストラが入って凄いんですよね、それをちょっとやってみたんですね。「七階の窓」っていうのは、石坂浩二さんが詩をくれて、なんかこう、録音するとかいうそういう訳ではなく、石坂さんも色々と才能の多い人だから、面白い詩だな、と思って、ちょっとやってみたっていう感じですか。「ノー・ノー・ボーイ」は確か、僕と福沢エミさんと歌ってるのかな。「ソー・ロング・サチオ」と「ミスター・タックス」、「ロンリー・マン」辺りは、多分スパイダースのアルバムに入ってると思うんですよね。
 
———スパイダースは69年の5月に出てるアルバム(『スパイダース'69』1969年5月発売)に、「ソー・ロング・サチオ」などが入っています。
 
ですから、サチオが死んだのいつだろう。68年?そっちの方が先だったのかな。っていうことは。バンドではやってないですよね、「ソー・ロング・サチオ」も何も。だからその辺からもう始めてたのかもね。多重録音みたいなのを。
 
———リリースされたのが70年2月ってことなんですけど、その年にスパイダースとタイガース、もちろんビートルズの解散の年でもあります。このアルバム作られているときはそういう時代の空気を感じられていたのですか?
 
知らず知らずのうちにこれからどうやっていこうかなー、みたいなことが、頭の中にあったんでしょうね。バンドやってると最終的に、ちょっと自分でやってみたくなるんですよね。皆そうだと思うんだけど。だから、一時バンド休止して、個人で色々作ってとか、いっぱいそういうのあるじゃないですか、だから、似たようなことだったのかな。基本的にスパイダース結成した頃っていうのは、ずーっとカバーでやりたかったんですよ。まだ若かったからそれでやっていけると思ってたんですよね(笑)。でも、やっぱりオリジナルをやんなきゃダメだって、事務所やレコード会社から言われてやりだした訳なんです。結局、自分で作ったオリジナルは売れなくて、浜口庫之助さんの「夕陽が泣いている」が代表曲になっちゃって、多分そういうの自分の中でやだったっていうのがあったのかもね。
 
———本城和治さん(当時のフィリップス・レコード・ディレクター)は、作曲家かまやつひろしというものを、再評価すべきだと、強くおっしゃってますよね。
 
僕はその時、作詞家とか作曲家とかいう、いまだにそうですが、あまり願望は無くって、ずっとミュージシャンっていうつもりでいたんですけれども、(僕が)作曲家として成功するといいな、っていう本城さんのフォローはあったかもしれないですね。でも、僕は自分の好きな感じの音楽作れたらいいな、ってことだけだったですから。
 
———かまやつさんが人に書かれた曲を聴いていると、安西マリアの歌にしても、ドゥーT・ドールの歌にしても、聴いていて頭にぼーっと浮かんでくるのは、かまやつさんが踊りながらギター持って歌っている格好が見えてくるんですけど。本城さんもその辺をきっと、イメージされていたんじゃないかなと。
 
(笑)でも実際僕があのとき、ドゥーT・ドールとか安西マリアとか、オファーもらったときに、なんていうかなー、作曲家になりきれなかったんですよね。だから、自分のエゴとの戦いみたいなもんで。それは結果に現れるんですよ。やっぱし中途半端な気持ちなんでしょうね。そこで、クルンといければ、ヒットに繋がったするんだけど、今になって考えてみると、彼らみたいな若い人たちに曲作るってこと自体が、恥ずかしい、みたいな。そういうヘンテコなプライドとか変なツッパリがあったんですね。
 
———それは同時に浜口庫之助さんが昔スパイダースに対して、依頼されてやっているって感じがダブって見えるとか、あったんじゃないですか?
 
そうね。だから、完全に音楽性というか、違うと自分で思ってたから、こういう曲を作ればヒットするっていうのは分かってたんだけれども、そこに行けない自分っていうのがあって、自分の中で葛藤したの。いけて書いたのは、ビーバーズ。不思議なもんでオファーが来るときっていうのは、そのバンドに、自分とバイブレーションが合うやつとかグルーブが合うやつとか居たりなんかすると、結構そういう気持ちで作れるんです。だけど、出版社やなんかから、こういう新人がいて、って言われるときは、やっぱし自分の中で抵抗があるね。
 
———絵が浮かばないとか。
 
そこがね、アマチュアなんだね。パーンって、その時点で感じたことを作るのが、ポップスだって風に自分は感じてた訳なんですけれども、やっぱり日本のポップスの歴史っていうのは、落としどころっていうのは何年も変わってないわけで、それで大作曲家の人達はストックがあると思うの。これは、日本人が好きなフレーズみたいな。それはもうちょっと自分では恥ずかしかったっていうか。つまり、どういうことかって言ったら、プロの作曲家になりたくなかったんだろうね。自分もそういう才能は無いと思ってたし。
 
———では、話をアルバム『ムッシュー』に戻して、これは内田裕也さんからも評価されたそうですね。
 
そう。うちに3時に電話掛かってきて、うちのかみさんから「何時だと思ってんだ」って言われたらしいんだけど。僕らって何時だろうと、どういう時だろうと、やっぱり美味しいもの食べたときとか、いいもの聴いたときとか、いい姿見たときっていうのは、すぐそいつに言いたいっていうのがあるんですよ。で、内田裕也はそういう奴なのね。あと、例えばパリに居る日本人。変な奴からフランスに居る自分と日本に対しての郷愁みたいなものを感じたとかね。だから、音楽って面白いもんだな、なんて、思いましたね。
 
———日本的なものと洋楽っていうの、かまやつさんの音楽の中ではなんか凄く大きな要素っていうか。基本的には、いわゆる日本的っていうものから離れようとすると意識されてたと思うんですけど。
 
それはありますねえ。だから、スパイダース時代に、ホントに全員、イギリス人に生まれれば良かったって言うくらい(笑)。やっぱし僕らは、イギリスの方が好き。どうしても。もちろん黒人音楽も好きなんだけれども、イギリス経由とか、白人を通ってくる音楽がいいんです。ハッキリしてるんです。あと、ギリギリのとこで、ブルースの「泣き」っていうのが、日本の演歌を感じて実は嫌なんです。だからいまだに、例えばカルロス・サンタナ嫌いなんです。ハハハ(笑)。好き嫌いがハッキリしてるから損したりもするんだけれども、得したりもする。それは僕らの世代、なのかなー、と思ってね。

●『アルバムNO.2 どうにかなるさ』
 
———二枚目の『どうにかなるさ』は71年の8月ということで、これはもうスパイダース解散後ですね。で、このスパイダース解散っていうのもハッキリしなかったっていうか、特に何も大きく打ち出したわけではなく。
 
ええ、なんかねえ、静かに解散したっていうか。
一番最初に辞めるって言ったのは、僕だったんです。ホントはメディアなんかに対して、一、二の三で集まって、解散しますって言うはずだったんだけど、僕は文化放送のセイヤングっていうのやってて、思わずラジオの中で「俺辞めるんだー」って言っちゃって、結構問題になったんですよね。(一同笑)。見切り発車しちゃったの。
 
———そして、セカンドアルバム。
 
そうですね、これは山上路夫さんと。村井邦彦さん関係で知り合いだったの。これも、本城さんだったんだと思う。自分では好きなアルバムですねえ。
 
———山上さんが、一曲づつ歌詞を書き分けてますよね。
 
そうなんです。すごく僕の身になって、書いてくれた。「どうにかなるさ」って曲に関しては、スパイダースがまだやってる頃にシングルを出したんですよ。アルバムより早かったのね。でもこれがフックになったんですよ。(コンセプトは)全くなんにもなくって。ただ、客観的に山上さんが僕のこと読んでたんじゃないかなあー。多分このバンド解散するだろうし、というか、同じバンド内の人よりも、客観的に近い人のほうが見えるでしょ? それでその時凄い話があったんです。同時期にテンプターズも、タイガースも、スパイダースも解散して。その時、タイガースのマネージャーやってた中井さんから、「ムッシュ、話があるんだよ、バンドを作りたいんだけど」っていう話があったんで、僕はそのバンドに入れるのかなーと思ってたんです。ついては、リード・ボーカルがショーケンとジュリーで、ベースが岸部修三(一徳)で、俺はギターかなんかで入るのかなと思ったら、大野克夫と井上堯之に口きいてくれって(笑)。つまりさ、わかる?間に入る人になっちゃったわけね。結構俺ショック受けました。これが、PYGですよ。リードボーカルがショーケンとジュリーなんて、すごいスーパー・グループになるし、そこのギタリストっていうのは結構オイシイなーって、思うじゃん?そうしたら違ったんだなー、これが。井上堯之で。そういうことがあったんですよね。
69年くらいの時点で、フォークをぶっ飛ばせっていうイベントを、ザ・フォーク・クルセダースの北山修さんと共同プロデュースで俳優座でやったことがあって、その時、はっぴいえんどとか、岡林(信康)とか、五つの赤い風船とかねと初めてやった。いわゆる70年代に来る、当時で言う反体制フォークっていうのに出会ったんですよね。俺は昔、カントリー&ウェスタンをギター一本でやってたから、そこで迷わず、フォークの世界に入ってったんだろうな。まあ、その前、スパイダースの頃は、マイク真木とか森山良子とか、いわゆるカレッジフォークみたいのが、はっきり言って嫌いだったんですよ。どっちかっていうと。ヴィレッジ・シンガーズとか、サベージとか、結構馬鹿にしてたわけですよ。だけど、拓郎の音楽聴いたとき、やっぱりメッセージ性があるのと、私小説みたいな、そういう音楽っていうのを僕はやったことなかったし、スパイダースの場合は、だいたいラブソングが多かったでしょ?だから、ある種、そういうつもりじゃなかったんだけど、そういう連中と一年も二年も学園祭とか回ったりとかしてたから、なーんとなくそういうものに魅力を感じたんでしょうね。
 
———ライヴで野次られたりとかもあったんですか?
 
忘れもしない、フォークになって一番最初のでっかいイベントが、中津川のフォークジャンボリーで、僕の前で、はしだのりひこが歌ってて、空きビンが飛んできたりなんかして、もうガンガンだったんですよ。怖えーなー、とか思いながら。僕はカントリーのバンドと出てって、カントリーばっかりやったの。そうしたら、暖かく迎えられた。ハハ(笑)。そんなことがあって、とにかくこの70年代になってから、すごくフォーク・ジャンルの人と、仕事を一緒にやることが多くなったんですよね。
「脱走列車」っていうのはね、そのちょっと前に、タイガースのアルバムに作ったんですよ。それはどういうことかっていうと、加橋かつみが、辞めちゃったときの話。「喫茶店で聞いた会話」は三億円事件から。「ベットの舟で愛の海へ」は、これは笠井紀美子さんとやった。で「四葉のクローバー」はガロです。デビュー前ですかね。CSNYみたいなコーラス、好きだったんですよね。実はね。こういうことをやりたかったんじゃないかな。スパイダースでね。だから一曲一曲違うでしょ?
 
———質も凄く高い。層々たるメンバーで、演奏も素晴らしくて、なんていうかこう、ある種、こっちもまたデビューアルバムっぽいですよね。
 
そうですね。ファーストって感じですね。
 
———ジョージ・ハリスンの『オール・シングス・マスト・パス』とか、グループ辞めて皆ソロになっていく、あの時代の匂いがするアルバムですね。
 
結局このファーストアルバムの頃になって、自分はやっぱりロックだったなってことに気が付いたんでしょうね。
 
●『ファーザー&マッドサン』
 
———次が、お父上、ティーブ釜萢さんとの『ファーザー&マッドサン』になるんですが、昔の年表とか見せていただいたら、ティーブさんとは、リサイタルとか一緒にやられたことがあるんですよね。

ええ。あと、西武系のインディーズレーベルが出来た時にシングルをつくったことがある。『スタジオムッシュ』でも再録した『1920〜1950』って曲。
 
———しかし、これは凄い企画のアルバムですね。
 
これはねえ、思いつきなんですよね。うちのオヤジが、アメリカ育ちで、英語が、ちゃんとしてるから。無理矢理、ポール・ロジャースの「Fire&Water」とか、「Ride on Pony」とか歌わせて。でも面白いなーと思ったんだけど、英語はパーフェクトだけど、ノリが違うんだよね。アルヴィン・リーの、「アイム・ゴーイン・ホーム」? これは比較的、普通のブルースだから、ジャズにあるカテゴリーでしょ? で、ポール・ロジャースに聞かせたの。そしたらオモシローイって言ってた。(笑)
 
———これも本城さんですか?
 
これも本城さんですねえ。この(最初のソロ)三枚は、相当好きなことやってましたよ。だから本城さんは正しい人なんだと思って。この頃はねえ、結構色んなことできたんですよね。少なくとも80年代の前半ぐらいまではねえ。だから、日本では何十枚しか売れなかった外国のレコードでも、今聴いてみると凄いのありますよね。ええー、よくこういうものをリリースしたなー、みたいなの、今考えてみるとあるでしょ?
 
———今日は、70年代のアルバムのお話を中心にお伺いするというインタビューの形で、本当は、一番そういうことが聞きたかったのかもしれないですね。
 
今ねえ、やっぱり予定調和っていうか、確信犯みたいな感じ?レコード出すんでも、ヒット性考えたり、なんかそういう範疇だから、とんでもないもの出てこないじゃないですか。だから、レコードに関しては70年代っていうのが一番好きなものができてた気がしますね。自分が60年代の後半に振り戻ってみると、やっぱりディープ・パープルとかレッド・ツェッペリンとか60年代の後半に既に、オーディエンスは欲しがってたの。多分ね。それが、わかんないんだよね、やってる方はね。“ただやってた”んだよね。70年代になってから選択肢が自由になって、音楽ファンも好きなものを選ぶようになれた中での、成功者なんだよね。音楽業界って、いつもそんなような気がしてしょうがないんですよ。今でもね、多分ね。
 
———このアルバムで、お父さんと、(当時の)今のロックっていうものを、掛け合わせて、何を、知りたかった、というか、何を、見たかったんですか?
 
ちゃんとリンクしてんのかなー、と思ってね。英語のちゃんとできる人たちが、音楽でどういう繋がりもってんのかな、って。
 
———ちょうど、この当時、ロックっていうものについて、色々こう、日本語のロックとは何かみたいなものがあった時代ですよね。
 
ありましたねえ。はっぴいえんど側と、内田裕也側ね。僕はねえ、そこまで突き詰めて考えてなくって。好きな音楽を好きな言葉で、やりゃあいいじゃないの、っていう感じで。あくまでも自分の快楽を先行してたから、言葉がどうのこうのとか、なんとかっていうのは、あんまり無かったですね。ただ、日本語のロックで、やっぱし凄いなと思ったのははっぴいえんどですよ。正直言って。

●『釜田質店 NO.3』
 
———それで、次が『釜田質店 NO.3』ってアルバムなんですけど、出演されていたドラマのキャラクターからのタイトルですよね。
 
そうです。「時間ですよ」ですね。
 
———これはそれじゃあ割と企画ありきの。
 
企画ありきですね。僕的にはある種チャレンジだったのかもね、メジャーの世界で。この時点でマチャアキの「さらば恋人」とか、井上順の「お世話になりました」のヒットがあって、結構焦った気持ちをもってたのかもしれないね、正直言って。
 
———阿久悠と筒美京平の曲が4曲あって、シングルもそうですよね。
 
今聴いてみると、やっぱり「青春挽歌」とか、阿久さんとか筒美さんはさすがにプロですね。「幼きものの手をひいて」なんて結構、ギルバート・オサリバンですよね。いい曲あるんですよ。だからもしも「青春挽歌」なんていうのは75年の「我が良き友よ」の後に出てたら売れてたかなー、って。大正ロマンみたいな
 
———大正ロマンで、バンカラっぽい、というか。確かに、「我が良き友よ」とイメージが繋がってますね。
 
だから僕自身も、その時、歌謡曲路線とかそういうスケベ心があったのかも(笑)。戦略的にやったんだよね。でも、今まで自分で戦略的にやったことが、全部失敗してて(笑)。
 
———ジャケはグラムっぽいですね。Tレックスの「スライダー」とか。
 
そうそう。内容が全然違うんだけどね(笑)。
 
———かまやつさんって、ホント、もろグラムの時に、凄いグラムやりそうじゃないですか。音楽性からしたら。
 
それはねえ、70年代の頭、ウオッカ・コリンズっていうのやってたんですよ、アラン・メリルたちと。そんときは完璧グラムでした。なんかこう、化粧したりなんかしてやってた。ちょうどその時に、キャロルと、サディスティック・ミカ・バンドと、ファニー・カンパニー、よく4組で一緒にやりましたよ。多分71、2年だと思う。今考えてみると、ここでもグラムでやったら良かったね、音楽的には。でも、この時期は自分の中で、頭で考えてることと、やってることが凄くずれてるのね。本来自分の頭で考えてることを出すべきじゃない?それが要するに、バランスが悪い。こうやって並べて見ると良くわかるんだけど。
 
●『ああ我が良き友よ』
 
———これは、75年2月に「我が良き友よ」がシングルが出て70万枚の大ヒットで、アルバムは4月のリリースですよね。

計算して、モノを作れるスタッフがいっぱい出てきて。例えば、今のドリー・ミュージックの新田和長さんとか日音の恒川光昭さんとか。
 
———アレンジャーもちゃんと1曲づつ分けてますよね。
 
言ってみれば、友人関係である種やったみたいですね。
 
———細野晴臣さん作・編曲の一曲目「仁義なき戦い」から、もろアラン・トゥーサンで、かなり、マニアックですね。
 
そうですね。まあ、「我が良き友よ」が売れてたから、アルバム出しゃ多少いくだろうみたいなとこがあって。あと、これだよなー。多分。「ゴロワーズを吸ったことがあるかい」が入ってるのは。
 
———そうですよね。B面の最後に。
 
タワー・オブ・パワーはたまたま来日してて、それで知ってる人が招聘先になってたんで、ダメ元でレコーディングやってくれるかな、って言ったらやってくれるってことになって、多分このとき忌野清志郎さんも同じ時期にレコーディングしてたと思う。それで、タワー・オブ・パワーに頼んだのはいいけれども、何をやろうかなーと思って。とりあえずコード進行だけ、眠っててもできるようなコード進行ってあるんですよ(笑)。それを渡したらグレッグ・アダムスがこことここは歌だからねって、カラオケを作ってくれたの。それを聴きながら詩を書いた。
 
———かまやつさんの中で、スゲー曲が出来た!、っていう手ごたえはありましたか。
 
いやー、あんまりないです。っていうか、「我が良き友よ」っていう曲自身も、自分の中でちょっと、違うなと思ってたから、俺は本当はこっちなんだよってことをシングルのB面で言いたかった。当時、AB面って皆それやってたみたいね。で、僕もそうしたんですよ。
 
———「ゴロワーズ」を良いって言ってくれた人というのは、当時居たんですか?
 
あんまり居なかったです。だから、(十年以上経って)例えば、小山田(圭吾)君とか小西康陽さんからね、ロンドンのクラブでかかってるよ、みたいな情報があった時はええー!みたいなことですよ。
 
———「我が良き友よ」の後にシングル2枚切られてますよね、「水なし川」と「汽笛一声夕日が沈む」。
 
「汽笛一声」はねえ、僕は嫌だったんですよ。
 
———ここまで順調にアルバムをリリースしていたのが、『ああ、我が良き友よ』の後ポカっと空きますよね。

まあ「我が良き友よ」が売れて、ちょっと商売になるなと思ったときに、主導権が全く自分とは関係ないところに行っちゃたところに、いきなり「汽笛一声」とか来ると、なんだこりゃ、って。
でもあのー、「水なし川」に関しては、売りたかったんだと思う。やっぱり曲が地味だったのかもね。集団就職みたいでしょ?
 
———いわゆる拓郎節ですよね。
 
いい曲なんだけどね。

●『ムッシュ・ファースト・ライヴ』〜トリオ・イヤーズ
 
———約3年ぶりのアルバムが初のライヴ盤で、ここからトリオに移籍されますね。
 
この後の『ウオーク・アゲイン』っていうのは、結構この時はフュージョンが入ってきたころで、深町純だったりするわけで。この深町純には言いたいことがあってね。LAまで行って録音して、ラス・カンケルとチャック・レイニーと凄いいいフォー・リズムだったのね。そのまま出せばいいのに、東京帰ってきたら深町純が、シンセサイザーかぶせていて・・・、これがちょっと気に入らなかったなー。(笑)
 
———マスタリングに関してはいかがでした?
 
あんまり干渉しなかったんですよ。ずーっと。気を遣いだしたのは、『パイナップルの彼方』の時あたりからです。ハワイで録音したんですけれども、ミキサーが、ハッパ吸ってぶっ飛んでて、東京帰ってきたら音が凄くボケてたりして、それでまたハワイに行ったりとかで色々ここで苦労があって。
 
———このトリオのアルバムていうのは、原版製作からご自身でやられていたんですよね。
 
そうですね。当時はまだね、レコード会社にお金があったから、年間幾らって予算を貰って、それを元に制作してた。78年、9年くらいはね。だけどレコード会社って不思議なもんで、原盤制作する場合は金はやるけど後は知らないぞ、みたいな。プロモーションやなんか、やっぱりあんまりやってくんなくて。ただ出すだけ。少なくとも、その前の「我が良き友よ」のときは、一大キャンペーンをやってくれたわけですよ。だけど、トリオに移って、バジェットはくれるんだけど何にもしてくれないそういう時代でしたね。

●Single & O thers
 
———「海の歌」、歌ってらっしゃいますよねえ。これ覚えてらっしゃいますか?
 
黛敏郎さんと凄く親しくて、これ75年ですよね、海遊博のテーマでした。恥ずかしいんだ、これ。
 
———かまやつさんの歌の上手さっていうのは、僕の中で、エノケンさんの上手さに通じます。
 
ああ、それ言われました。実際にエノケンさんの曲歌えば、って言われたこともあるし。
 
———アクロバットみたいに歌ってるみたいで譜面をちゃんと押さえているというか。歌声が喋り言葉に近いような感じはありますよね。
 
つまり、こう歌いなさいって言われるとき、歌手って感情移入ができないじゃないですか。だけど、その感情移入ができないほうがいいのね。だから「我が良き友よ」がヒットしたときに、美空ひばりさんに会ったら、あたしだったらあれ泣きながら歌う、ってね。ムッシュはなんだか他の事考えながら歌ってるからヒットしたのよ、って。
 
———あと、ギャートルズの主題歌も人気曲ですね。
 
これはねえ、赤坂の蕎麦屋に行ってたら、たまたま酔っ払いのオジサンが前に居て、何か話してたらその人が園山俊二さんだったんですよ。それで、僕のことを何か変な奴だとか思ってたのかなんか知らないけど、「アニメーション作るんだけど、こんなストーリーなんだけど音楽やってくんない?」と言われて、もちろんふたつ返事の軽い気持ちでやったんです(笑)。(オープニング・テーマを聴きながら)これ僕がデモテープで全部やったんですよ。そしたら大変だったと思うんだけど、それをそっくりそのまま、録音してくれたんです。
 
———歌ってるのは、ステージ101の人ですか?
 
そうだと思います。後で聞いたけど、やっぱり大変だったって(笑)。
 
———この流れで「花の係長」も。
 
そうですね。「花の係長」ってどんな音楽だったか忘れちゃってんだけど。
 
———スパイダースの以前のシングルのノリもありますよねえ。
 
(音を聴いて)これ結構ねえ、クレイジーキャッツ、植木等とかそういうの入ってるね。
———楽曲を提供された中で、特に思い入れのあるものがあれば教えてください。
そうですね。安井かずみとやったアラン・メリルのは結構一所懸命やりましたねえ。当時、ヘレン・メリルさんがずっと日本に居て、彼も日本に居たんでしょっちゅう一緒に遊んでたりなんかして。当時アランがワタナベプロだったんですけど、その時のマネージャーが今のサザン・オールスターズの、アミューズの大里さんだったの。
 
———「子連れ狼」もやられていますよね。
 
これはねえ、いきなり若山富三郎さんから来たの。ええー、と思ったんだけど。「時間ですよ」をやってる頃で、僕と樹木希林さんが一緒に出てて仲良かったんですね、彼女の友達の女優さんが若山さんの奥さんだったのかな。そういう関係だったとおもう。それでこの頃、勝さんに会ったりとかしてました。結構ヤバイなーとか思いながら。
 
———裕也さんのファーストアルバム収録の「いま、ボブ・ディランは何を考えているか」。これは書き下ろしですよね。
 
そうです。これはねえ、頼まれたころにボブ・ディランが来日してて、まあボブ・ディランってああいうイメージの人じゃないですか、それが原宿のブランドショップで、色んな物買いまくってたんだよ。それ俺、目撃しちゃって、ちょっとイメージ違うー、みたいな感じですね。このタイトルは、内田さんが考えたんだけど。洒落てる人なんだよね。
 
———何年くらいですか、それは?
 
ええとね。75、6年だったかな。浅川(マキ)さんが詞を書いてくれた曲があったと思うんだけど。
 
———あ、これだ。「賑わい」
 
ああそう。「賑わい」。そうですそうです。これは、浅川さんから突然電話が掛かってきて。
 
———あと、安井さんとのお仕事がやはり多いですよね。そうですね。
 
よく、一緒に遊んだりしてたんで。これ(『ZUZU』収録の)、「プルコア」って曲はね、ゲーンズブールとジェーン・バーキンのイメージ。この人フランス語ができるもんだから。
 
———三保敬太郎さんとはあんまりお仕事されてないんですか?
 
 三保さんとは全然。あの人は僕の遊びの先輩で、仕事はしてないですけど、アレンジとかずいぶんやってもらいました。「ボビー・ダーリン、そっくりそのままアレンジしてくれるとか言って。車友達かな。彼もサチオの思い出みたいな曲作ってましたよね。「サチオ」っていうやつだ。
 
———福沢さんと三保さんが、喋っています。
 
えー。そうなんだ。ちゃんと聴いてないや、まだ。生声があったんだ。
 
———録音されていた電話の会話を、ボサノバにのせて。
 
69年か。(収録アルバム「サウンド・ポエジー・サチオ」CDSOL-1068を聴きながら)カッコいいよねえ。ジャン・ポール・ベルモントみたいだ。(しばし会話部分を聞き入り)凄いアルバムだなあ。んー。
 
———サチオさんが、いろんな音楽をどんどん持ってきてくれたんですよね。
そうなんですよ。だから、スパイダースのね、7人目の…
 
———8人目。
 
(笑)8人目のメンバーっていうくらいに。エドワーズに居たからしょっちゅう外国に行ったでしょ。だから早かった。この人のお陰で助かったね、踊りの振りまで教えてくれるの。ジャンルが広いんですよ。忘れもしないけど69年の2月12日か、スパイダースで、その日渋谷公会堂に居たらねえ、真っ青な顔して内田裕也が駆け込んで来てさ、当時まだ楽屋が畳で、そこに、バーッて上がりこんで、じっと黙っちゃって。彼が教えてくれたんだよ、サチオが死んだって。結構、その時のこと忘れないな。裕也と会うといきなり、こんにちはも無く、タイムスリップしてそういう時代に話が行っちゃうの。飛んじゃうの。
 
(2005年9月7日 編集部にて。濱田高志さん、編集部・前田雅啓さんにご協力いただきました)

©ウルトラ・ヴァイヴ / シンコーミュージック・エンタテインメント