Monsieur Voice / ムッシュ@Rock 

1999〜2017 携帯サイト"ARTIST NUDE"より

【サ】


 

サイモンとガーファンクル

R&R少年2人が出逢いデュオを結成
1950年代ニューヨークのクイーンズで出逢った少年二人はR&Rで意気投合、エヴァリー・ブラザーズスタイルのデュオ「トムとジェリー」として活動をスタート。デビュー曲が小ヒットを記録し、暫しロックスター気分を味わったが長くは続かず。それぞれソロとしてレコード会社へ売込みを続ける毎日を送る。
【ムッシュから一言】
サイモンとガーファンクルやビートルズの音楽からは50年代を思わせるメロディ・ラインや唱法その他を感じることがあるけど、それがエヴァリー・ブラザーズからの影響なんだと知ったときは、なぜか嬉しかったな。
 
フォーク路線でメジャーデビュー、しかし売れず
60年代に入りフォークミュージックが人気を博し始めると2人は再びコンビを組み「サイモンとガーファンクル」として再スタート。64年のアルバム「水曜の朝午前3時」の評判はよかったがヒットには結びつかず、サイモンは単身イギリスに、ガーファンクルは大学に戻って別々の生活を送ることとなる。
【ムッシュから一言】
ファーストアルバムを発表してから訪れた英国で、サイモンはケルト系の音楽を習得したはず。でないと「スカボロー・フェア」のような曲を取り上げることはなかったでしょう。
 
「サウンズ・オブ・サイレンス」が突如ヒット、人気者の仲間入り
65年末、レコード会社の独断で再発売された「サウンズ・オブ・サイレンス」が突如ラジオでかかり始め、次作のレコーディングのため2人は何度目かの合流を果たす。以降コンビはビートルズに引けを取らぬ当代有数のヒットメーカーとして数々の名曲を送り出し、音楽シーンの牽引者となった。
【ムッシュから一言】
ディラン、バーズ・・あの当時のアーティストはみな素晴らしい。そんな中で「サウンド・オブ・サイレンス」は勝手にリリースされて。
僕も同じような経験あるけど(註:スパイダーズの「夕陽が泣いている」は彼らの海外遠征中に人気の火がついた)帰ってきたら大スター、って大変だよね。
 
人気絶頂時に解散、以降も続く交流
実験的なサウンドに挑戦したレコーディングと、アコースティックなライブを両立させてきた2人だったが70年のアルバム「明日に架ける橋」をもってコンビは解消。以降それぞれのキャリアを成功させる一方時折お互いの作品に顔を出し、ファンを喜ばせている。2003年末には久々の再結成ツアーを行った。
【ムッシュから一言】
2人にはこれからもいい曲を凝って作って欲しい。アメリカではこの前の再結成ツアーが久しぶりということで随分話題になったみたいだけど、日本ではその前に2人でライブやってるんだね。案外ちゃっかりしてるよね。

ザ・スパイダース

ビートルズスタイルの「東京サウンド」を目指す
バンドリーダー、田辺昭知が「ザ・スパイダース」を結成したのは1961年のこと。当初インスト曲を中心に演奏していたバンドにはユニークな人材が続々と加入、ビートルズが日本に紹介された後1965年には、彼らの音楽に和風のテイストをミックスした「東京サウンド」を標榜し、日本初のビートバンドの一つとしてロックナンバー「フリフリ」を発表した。
【ムッシュから一言】
ザ・スパイダースが結成されたのが1961年なんですが、その頃はトリオ・プラス・ワンみたいな編成のインスト・バンドだったんです。「エキゾチック・サウンド」っていうのかな?マーティン・デニーみたいなやつ。
ソロ歌手だったんで、最初はゲストボーカルとして参加してました。田辺さんとは学生の頃からの友達で「いつか一緒にバンドをやろう」と言っていたので、1963年頃にイギリスから来たビート・サウンドのバンドの音を聴いて「こんなバンドを作ろう!」と正式メンバーになったんです。7人編成になったのが1964年くらいで、一番楽しかった時期ですね。
 
試行錯誤の末「夕陽が泣いている」でブレイク
洋楽知識の豊富なかまやつひろしのペンによるユニークなロックナンバーを次々と発表した彼らだったが、その「バタくささ」が災いしたのかレコードセールス的には低迷。約1年後に発表した5枚目のシングル「夕陽が泣いている」はプロの作曲家が提供した「歌謡バラード」で、これが大ヒットしたことによりブレイク。「グループサウンズ(GS)」の先鞭をつける。
【ムッシュから一言】
「フリフリ」のレコードセールスはそれ程でもなかったんだけど、ジャズ喫茶とかライブハウスにはお客さんが入っていたので、それをセールスにも結びつけようということで浜口庫之助さんに作ってもらった「夕陽が泣いている」をリリースしました。 はっきりいってみんな嫌々やってました。この曲があったからその後の僕らがあるのも事実なのですが、それまでのファンは退いてました。 ブルー・コメッツは先に成功していて、その後2つのバンドで「GSブーム」になるんですけど、そんな時期もすぐ終わってタイガースとかテンプターズに先を越されましたね。
 
GSブーム爆発、シーンの中核を担う
1967年になると彼らを目標に結成された若手バンドがシーンに続々と登場、ヒット曲も多数生まれ「GSブーム」が到来。彼らも洗練されたポップスを次々とヒットパレードに送りこんでブームの牽引者となり、主演映画も多数制作された。しかし元々ベテランだった彼らはアイドル的な人気では後続の若手に敵わず、メンバーのキャラクターが前面に押し出されるようになる。
【ムッシュから一言】
売れてない時期が結構長くて。でも楽しくてね。 「夕陽が泣いている」までが僕にとって本当のザ・スパイダースかな、って思います。本当にこの頃は海外進出も考えてたんだけど、海外でのプロモーションの仕方とか問題もいろいろあって、自分達ではコントロールできなくなって・・。 確かにヒット曲はこの後も出たし、そういう部分では良かったんだけど、今思うと楽しくなかったかもね。 映画なんかにも出て、今のマチャアキとか順ちゃんの基礎が出来たんだけど、後半は音楽だけじゃやっていけなくなって、TVにも出るようになったっていうのが実情。
 
70年代到来とともに解散、メンバーはそれぞれの道へ
約3年間に亘って盛り上がりをみせた「GSブーム」も、70年代の足音を聞く頃になるとやがて終息。メンバーもソロ活動が目立つようになり1970年末にバンドは解散。その後のメンバーたちの各界における活躍はご存知のとおり。度々再結成ライブも実現し、新旧のファンを喜ばせている。
【ムッシュから一言】
キャラクターの強い人間が多かったから、自分の道っていうのがそれぞれあって。 70年代に入って自然に役者になる人がいたり、他のバンドを作る人がいたり、田辺さんはそのまま事務所の社長になったしね。僕もフォークの世界に入って。バンドやってる頃からそれぞれやることが決まっていたんですね。みんな自然に、バンドとしてやってる頃からわかってました。今、なんかあると皆で集まるんだけど、冠婚葬祭バンドになるのは嫌なので、とりあえずイスとソファーだけ置いておこう的な感覚で「ソン・フィルトル」をやってる感じかな。「3人でやっていれば、またなんかあるでしょ!」って感じ。

ザ・ゾンビーズ

ロンドンのクラブシーンから登場
ロッド・アージェントが高校のクラスメイトと1961年に結成したゾンビーズは、ユニークなボーカリスト、コリン・ブランストーンと、アージェント同様ジャズに造詣の深いクリス・ホワイトの加入によって個性的なバンドに成長、盛り上がるロンドンのビートブームの中、シーンの注目株となった。
【ムッシュから一言】
1963年のUKはビート・グループのブームで、各地のクラブシーンで数え切れないくらい沢山のバンドが登場。国内でブレイクして、その後アメリカに上陸しようという戦いにしのぎをけずっていたのだと思います。
 
「She's Not There」でブレイク、アメリカ進出
レコードデビューを決めた彼らは64年7月に「She's Not There」でデビュー。このシングルはアメリカでもリリースされ本国を上回るヒットを記録。翌65年にかけてゾンビーズはこの時期アメリカのヒットチャートを席巻したブリティッシュ系バンドの中でも、よりユニークな存在として注目を集めた。
【ムッシュから一言】
その中で多分もっともジャズっぽかったのがゾンビーズで、音楽的に他とは違うサウンドだったので当時のオーディエンスにはとっても新鮮に聞こえたと思います。「She's Not There」が何とプロデビューのきっかけをつくり、しかもこの曲がアメリカでヒットしたのです。この事件が、本当の意味でUKバンドがアメリカを席巻する最大のきっかけを作ったのかもしれません。昔も今もアメリカはもとより、世界中にとって彼らの音楽はスペシャルなのかも!
 
後続ヒットに恵まれず低迷
好調なスタートをきったゾンビーズだったが、続いて佳曲揃いのシングルを次々と発表するも成績は低迷。バンドの将来を不安視するメンバーが転職を考え始めるに至ってバンド活動はこう着状態に陥る。起死回生をかけて力作アルバムを制作したが、相変わらず状況好転の兆しはなかった。
【ムッシュから一言】
他のUKバンドの例にもれずゾンビーズも長い低迷期の後、1968年ラストアルバムをリリースして解散してしまいます。ところが、しばらくして予期せぬ大ヒットが「2人のシーズン」で出ます。 けれども、ゾンビーズは当時甦ることなく1968年で封印されているので、これがまたかっこいいのです。
 
バンド解散後に予期せぬ大ヒット
結局バンドは68年3月に解散を宣言。ラストアルバムを発表すると、暫くしてそこから「2人のシーズン」がアメリカで思いがけぬ大ヒット。人々は再びゾンビーズの音楽を求めたが、既に其々のキャリアを目指し始めていた彼らの再結成は叶わず、60年代の伝説としてその名は封印された。
【ムッシュから一言】
ゾンビーズ解散後、メンバーのロッド・アージェントが「アージェント」というバンドを結成。1972年「Hold Your Head Up」をヒットさせました。僕は今この曲にハマってます。皆さんもアージェントとゾンビーズを一緒に聴いて、その素晴らしい音楽センスを楽しんでください。

ザ・タイガース

関西の人気バンドが上京しデビュー
京都の遊び仲間4人にライバルバンドのボーカル、沢田研二が合流し「ファニーズ」が結成されたのは1966年1月のこと。徐々に人気を高める中そのステージが内田裕也に認められて上京、引き合わされたすぎやまこういちは彼らを関西出身ということで「ザ・タイガース」と名付け、デビューに向けて合宿生活が始まった。
【ムッシュから一言】
彼らがまだファニーズでアマチュアだった頃、京都でスパイダースのファンクラブのイベントに女の子の中に混じっていつも4人で来てたの。それが後のタイガースになったんです。
本当はスパイダースの事務所に入るはずだったんだけど、内田裕也さんに連れられて渡辺プロに行ってしまったんです。
 
ヒット曲を連発しシーンのトップに
翌67年にデビューが決まった彼らは精力的にステージ、TV出演をこなし、その若々しい魅力で日に日にファンを増やしていった。全力疾走の一年間を締めくくるシングル「君だけに愛を」は沢田の「指差しポーズ」が一世を風靡し大ヒット、その頃には彼らは、他のバンドを抑えシーンのトップに踊り出ていた。
【ムッシュから一言】
デビューした後は見る見るうちに頭角を現していったね。その後ライバルになったんだけど、年齢も若かったしルックスも良かったからすぐ追い越されちゃった訳です(笑)。 それで僕らの事務所はテンプターズをデビューさせたの。その頃には僕ら(スパイダース)は解散へと向かっていってたかな。
 
ブームは一大現象に。様々な批判を受けながら試行錯誤の日々
68年は「GSブーム」が最高潮に達した年。その先頭を突っ走っていた彼らは熱狂的な声援を浴びると同時に、多方面から様々な批判を受ける「社会現象」となる。喧騒の中彼らはより高い音楽性を求めて意欲作「ヒューマン・ルネッサンス」を発表したが、ブームの流れを変えるまでには至らなかった。
【ムッシュから一言】
完璧にコンセプトはビートルズだったんだけど、日本で初めてイメージからちゃんと戦略的に作り込んだバンドだと思いますね。最近のバンドは皆、まずイメージを作り込んでから売り出されているように思うんだけど、そんなバンドを見てるとタイガースを思い出すね。
僕らよりメジャーになった代りに困難が多かったのは確かでしたね。社会現象になったくらい凄かったからね。
 
トッポが脱退、シロー加入もグループは解散へ
GSブームが退潮の兆しを見せ始めたものの、相変わらず安定した人気を誇っていた69年、沢田に次ぐ人気を誇っていた加橋がレコーディングスタジオから失踪、脱退を表明する。グループは急遽岸部の実弟、シローを呼び寄せ活動を続けたが、彼らが「終末」に向かっている印象は拭い去れなかった。71年1月、解散コンサートをもってその歴史は閉じられる。
【ムッシュから一言】
僕にとっては、加橋くんが辞めた時点でタイガースは終わりでしたね。彼らはメジャーになったがゆえにGSブームが衰退した後もやり続けざるを得なかった。だから71年の解散なんだと思う。ミュージシャンがもうヤダと思ってやってるとお客さんは見抜いちゃうから、解散までの最後の1年はファンも辛かったんじゃないかな?その頃僕の曲を彼らがカバーしてるんだよ。「脱走列車」と「どうにかなるさ」だったと思う。「脱走列車」は加橋君の事をモデルにしたんだけどね。もし持ってたら聴いてみると面白いかもね(笑)。

The BEATLES

ビートルズ誕生
最近No.1ヒットのみのベスト『1』が全世界で2300万枚を売り、今また何回目かのブームのビートルズ。ロックンロール以降の音楽シーンを革命的に変えた彼らのスタートはジョン、ポール、ジョージ在籍のクオリーメンが(シルバー・)ビートルズに改名した1960 年。ライヴで既に人気だった彼らはドラムにリンゴを加え、マネージャーのブライアン・エプスタインの協力の下1962年シングル「ラヴ・ミー・ドゥ」でEMIから鮮烈にデビュー、その歴史の1ページ目を刻んだ。
【ムッシュから一言】
日比谷のアメリカン・ファーマシーに洋楽のレコードが置いてあって、そこでビートルズのファーストアルバムを見つけたんですよ。それを聴いた時、今までの音楽とは違うな!と思って。まず音が違った。コード進行とかリズムとかそれまで聞いていたアメリカから来る音楽に比べると音に紗が掛かっている感じがしたんですよ。音がセピア色に感じた。そこがすごく魅力的だったね。それまで英国(ロンドン)にはあまり興味は無かったけれど行ってみたいなと思いましたね。こういう形態の自分達で演奏 して歌うバンドになろうって皆で目標に決めたんです。それが1963年の暮れぐらいかなぁ。僕にとってはマージービート(リバプールサウンド)を追い求めていこうと思ったきっかけです。それまで僕はカントリー&ウエスタンをやっていたわけだから自分の中ではとてもカルチャーショックも受けたし、ビートルズが出てこなかったらまだカントリーやっていたかもしれないし。それぐらい影響を受けているよね。エルビス・プレスリーが出てきた時はあんまり興味が無かったけれど、この人達は別だった。
 
ビートルズ、アメリカ上陸!
彼らの人気は次のシングル「プリーズ・プリーズ・ミー」(1963)で一気に爆発し、僅か1年間に「シー・ラブズ・ユー」他4曲を立て続けに全英No.1とし人気を決定付けた。アメリカには1964年2月の『エド・サリヴァン・ショー』への出演で上陸、1964年だけで 4曲のNo.1を記録、"ビートルマニア"なる用語を産むほどの人気を確立、以降イギリスのバンドによるアメリカ市場の「ブリティッシュ・インベイジョン」の先鞭を付けたのだった。
【ムッシュから一言】
スパイダース結成当時、どういう音楽を目指していこうかという時にアメリカで発売された「ウィズ・ザ・ビートルズ」っていうアルバムが手に入ったのとちょうど同じ時期に「エド・サリバンショー」にビートルズが出たのを見たりなんかして、立て続けに目にして耳にして。ビートルズを聴くようになってからこの人たちは何を聴いているのかインタビューを読んだりして調べてチャック・ベリーとかカール・パーキンスとかいろんなアーティストの音を追っかけるように聞いていたね。スパイダースはビートルズをカヴァーしたのが日本で一番早かったと思っているし、全員ビートルズを好きだったからね。とは言いつつステージ上の動きはローリング・ストーンズみたいにしていたけどね。ビートルズってほとんど動かないでしょ!2つのバンドを融合してスパイダースが出来上がった感じかな。
 
新たなる創作の地平へ
『ハード・デイズ・ナイト』(1964)『ヘルプ!』(1965)と映画のタイインでマス・アピールを勝ち得た彼らは『ラバー・ソウル』 (1965)『リヴォルヴァー』(1966)ではより複雑な楽曲とサイケデリックなサウンドへと創作レベルを高めた。そうした創作活動のため1966年武道館での日本公演の後最後の全米ツアーを終えた彼らはライヴ休止を宣言。翌年ポップ史上に残る『サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド』で創作の頂点を極めた。
【ムッシュから一言】
スパイダースで色々映画とかもやっていたけれど、これもビートルズの影響だね。「ハート・デイズ・ナイト」とかさ。この頃日本にも来てさ。あの武道館でのライブ。スパイダースにもオファーは来たんだけど、出なかった。それは真似してたぐらいの憧れだったから。その人たちの前で出来ないじゃない。恐れ多くて。スパイダースは全員で客席で観てた。食い入るようにね。でも、僕は「リボルヴァー」ぐらいから徐々に心が離れていってたんだ。だから僕にとってビートルズは1966年ぐらいまでかなって思ってる。日本公演を観たところでもう僕の中のビートルズは完結してた。「サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド」はすごいアルバムなんだけど、もうビートルズじゃないと思った。
 
傑作の数々、そして解散
1967年ブライアン・エプスタイン急死以降、自らのアップル・レコードの経営上の対立等から各メンバー間の亀裂は大きくなっていった。名盤『ホワイト・アルバム』(1968)もそれぞれバラバラの楽曲で満たされ、ポールのもう一度ライヴを、との発案による『レット・イット・ビー』(1970)もプロデュースで大もめ。そんな中作られた『アビー・ロード』(1969) は一大ロック・シンフォニーと言えるロック史上最強のB面でファンを喜ばせたが1970年4月にビートルズは解散。4人はそれぞれの道に足を踏み出したのだった。
【ムッシュから一言】
1967年にブライアン・エプスタインが突然亡くなって完全に終わったね。やっぱりエプスタインは5人目のビートルズだと思ってたし。申し訳ないけど、あんまり聴いてないから後期(1967年以降)は語れない。その代わりって言う訳ではないけどちょっとエピソードがあって、この間六本木でヴァージンの会長に会ったんだけど、自分でギターかき乱しながらビートルズばかり一人でやってたのを見て凄いことだなぁと思ったよ。もうジーンズみたいなもんだよね。世界共通っていうかさぁ。どこの国の人でも共通して話せる話題ってあんまり無いじゃない? 最後に、僕のビートルズの曲で一番好きな曲を教えましょう。 それは「It Won't Be Long」だね。みんなはどの曲かな?

シーナ・イーストン

TVのドキュメンタリー番組をきっかけに幸運なデビュー
音楽学校の学生だったシーナはとあるドキュメンタリー番組のため開催されるレコード会社のオーディションの存在を学校関係者から知らされ、企画に挑戦。見事契約を勝ち獲りレコードデビューを果たした。リリースされたシングルはTVで紹介された途端大ヒットを記録、まさに一夜にして彼女の成功物語は始まったのだった。
【ムッシュから一言】
アメリカ人だと思っていたのですがスコットランドのグラスコー...つまり、スコティッシュとは知りませんでした。
80年代に六本木のディスコに行くとよく彼女のヒット曲「モダン・ガール」が聞こえてきました。
 
清純派ポップ・シンガーとして英米のチャートを席巻
「モーニング・トレイン」「モダン・ガール」と順調にヒットを飛ばした彼女は当時でも珍しいタイプの清潔さが人気を呼び、アメリカのヒットチャートにも進出。その年の新人賞を総なめし、英国王室主催のコンサートへの出演や「007」映画の主題歌への抜擢など、考えられる限りの成功を次から次へとものにしていった。
【ムッシュから一言】
僕の中ではディスコ・ミュージックの美人シンガーというイメージでしたがR&B路線でプリンスとのコラボがあったりして結構幅広い音楽性のある人だと知ったのは最近です。
 
R&B路線にチャレンジし、大胆なイメージチェンジ
活動拠点をアメリカに移し83年に発表した「テレフォン」のヒット以降彼女はそれまでの清純なイメージから脱し、時代に即してセクシーなR&B系の曲も取り上げるなど次々と音楽性を変えヒットを連発していった。またスペイン語のラテン・アルバムにも挑戦、見事グラミー賞を獲得している。
【ムッシュから一言】
シビアなアメリカ音楽界の中にあって彼女も90年代には低迷した時期もあったようです。
が、日本人は飽きっぽいはずなのに聞き続けた。
それが今日の彼女を支えたらしいです。
 
アダルトなエンターテイナーとして現在も活躍中
90年代に入り音楽シーンが様変わりを始めるとシーナは活躍の場をヒットチャートからミュージカルの舞台や劇場に移し、より円熟したエンターテイナーとして成功を継続している。近年アルバム・リリースのニュースも聞かず、久しく来日公演もないが、彼女は現在も精力的に活動しているようだ。
【ムッシュから一言】
その応援のお陰もあってか、アメリカ市民権獲得!
ミュージカル、声優、バラエティー、への挑戦などキープ・ゴーイング・オンであります。

ジェネシス/フィル・コリンズ

ジェネシス(創世記)の始まり
4デケイドにわたり世界中のファンの支持を集めたスーパーバンド、ジェネシスの起源は1966年、サリー州のパブリックスクール「チャーターハウス」の同級生だったピーター・ガブリエル (vo)、マイク・ラザフォード(b)、トニー・バンクス (kbd)、クリス・スチュワート(ds)とアンソニー・フィリップス (g)が結成したスクール・バンド、ニュー・アノンだ。クリスに変わってジョン・シルバーを加えたバンドはジェネシスと正式に改名、『創世記』(1969)でデビューしたが評価は今ひとつ。続く『侵入』(1970)発表後に初期の中心メンバーだったアンソニーとジョンが脱退。変わって参加したのがこの後サウンドの核となるフィル・コリンズとスティーヴ・ハケットだった。
【ムッシュから一言】
1970年代初頭、E.L.Pとジャスロ・タル以外アート・ロック、プログレ系をあまり聴いていなかったので “ジェネシス”の情報は当然ソコソコでした。
でもピーター・ガブリエルとフィル・コリンズの名前は知っていました。
 
プログレの70年代〜そして3人が残った
メンバー入替で従来のアート・ロック路線から、ピーター・ガブリエル中心の本格派プログレ・バンドに変貌したジェネシスは『怪奇骨董音楽箱』(1971)『フォックストロット』(1972)『月影の騎士』(1973)、『幻惑のブロードウェイ』(1974)と立て続けに全英トップ10に入る充実作を発表。ピーターのシアトリカルなステージングも相まって個性的プログレ・バンドとしての地位を確立。しかしピーターも1975年脱退。その後フィルのボーカルのリズム強調サウンドに移行し『トリック・オブ・ザ・テイル』(1976)『静寂の嵐』(1976)とヒット作を飛ばしたが、1977年スティーヴ・ハケットも脱退。バンドはフィル、マイク、トニーの3人に。
【ムッシュから一言】
私の周りのマニアックな友達達は「ジェネシス」「キング・クリムゾン」等の事をよく話題にしていて...
そうなると私も引くというイヤな性格なのでますます縁遠くなっていったのかもしれません。
 
メインストリーム・バンドとしてのジェネシス
その名も『そして3人が残った』(1978)を発表した3人。同作からの「フォロー・ユー・フォロー・ミー」が全米のFM局の支持を集め、ジェネシス初の全米ヒットとなりアルバムも14位に上る全米ブレイクを果たした。これがきっかけで『デューク』(1980)『アバカブ』(1981)などでUKのみならず全米での人気を確立した彼らは『ジェネシス』(1983)でメインストリームへの華麗なサウンド移行を果たし、続く『インヴィジブル・タッチ』(1986)は当時全米でも敢行されたアリーナ・ツアーの成功や、MTVへの露出も相まって英米で大ヒット。タイトル曲は彼ら初そして唯一の全米No.1ヒットとなり、人気の頂点を極めた。
【ムッシュから一言】
あの容姿の割りに確かにMTVやステージでの演出には目を見張るものがありましたね。
ヴォーカルがフィル・コリンズになって好ましく思うようになりました。
 
そして2人が残った
その後『ウィ・キャント・ダンス』(1991)や一連のライヴ作をリリースしたものの、フィルのソロ活動の成功によりバンドは休止状態に。フィルはソロデビュー『夜の囁き』(1981)がいきなり全英No.1、続く『心の扉』(1982)『ノー・ジャケット・リクワイアド』(1985)『バット・シリアスリー』(1989)などから「ワン・モア・ナイト」「ススーディオ」「アナザー・デイ・イン・パラダイス」といった全米No.1ヒットを連発。結局1996年にはフィルも脱退。マイクとトニーはレイ・ウィルソン(vo)を加え『コーリング・オール・ステーションズ』(1997)を発表したが商業的・評価的にも残念な結果に。レイも今は脱退しており残念ながら現在バンドは活動休止中だ。しかし再結成の噂も聞こえてくる中、往年のファンの期待は高まっている。
【ムッシュから一言】
ゲート・リヴァーブやヴァリ・ライト、今では当たり前のように使われているスクリーンは確かに凄いですね。
再結成という話も有るようなのでこれからも楽しみです。

ジミ・ヘンドリクス

兵役除隊後音楽修行を開始
1963年、19歳で軍隊を除隊したジェームス・ヘンドリクスはギタリストとして各地のR&Bバンドを渡り歩いた。その派手なギタースタイルは当時としては異端であったが、次第に実力が認められてニューヨークに進出。ブルースやフォークのアーティストのバッキングを通じて彼自身が注目を浴びる機会を窺っていた。
【ムッシュから一言】
これほどまでにギターを使って様々な音楽表現の可能性を我々に伝えてくれたギターリストは彼が「神格化されてる」とかのレベルの話ではなく、本当にすごいと思うしこんなセンスと言うか才能をもったギターリストは今後出現しないと思います。
 
チャス・チャンドラーと出逢い渡英、ブレイクのきっかけをつかむ
ニューヨークのクラブでライブ活動を行いながらデモテープを売り込んでいたジミに注目したのは、アニマルズのベーシスト、チャス・チャンドラーだった。66年に渡英しレコード・デビューを目指すことを提案された彼はそれを承諾、ロンドンでバンドメンバーを集め「ジミ・ヘンドリクス・エクスペリエンス」として華々しく音楽シーンに登場した。
【ムッシュから一言】
ジミ・ヘンドリックス、ノエル・レディング、ミッチ・ミッチェルのエクスペリエンスは僕にとって最高のバンドでした。
 
アメリカに凱旋、モンタレーでスーパースターに
イギリスで次々とヒットを飛ばし話題騒然となったジミはポール・マッカートニーの推薦で67年、カリフォルニアで開催された野外ロック・フェス「モンタレー・ポップ・フェスティヴァル」に出演。そこで圧倒的なパフォーマンスを披露して観客に衝撃を与え、一夜にしてスーパースターに。アメリカ逆上陸を一大センセーションで飾った。
【ムッシュから一言】
僕の好きな彼らの曲は「ストーン・フリー」です。
 
商業的な成功と音楽的な探究の狭間で命を落とす
アルバム制作に意欲的に取り組み、そのいずれもが大ヒットとなったジミは69年の「ウッドストック」でも印象的なパフォーマンスを披露。その後も新たな音楽の可能性を模索し続けたが常習的な薬物使用がたたり翌70年の9月に死亡。残された膨大な録音は現在まで何度も形を変えてリリースが繰り返されている
【ムッシュから一言】
これからも彼らの音源を集めるしずっと彼らのプレイは頭から離れそうもありません。

ジャニス・ジョプリン

テキサスの孤独な少女が、サンフランシスコで音楽に開眼
テキサスの小さな町で生まれ育った画家志望の少女ジャニスは、その保守的な世界から逃れるように大学をドロップアウトしてサンフランシスコに移住。フォークシンガーのようなこともやっていたが、麻薬の密売で生計を立てる毎日に疲れて挫折。テキサスに戻りウェイトレスの傍らクラブでブルースを歌うようになった。
【ムッシュから一言】
テキサスといえばとても保守的です。その中で芸術的な基礎を持った彼女は、その才能を開花させるには女として美人である必要があった。彼女は当然"バックレ"ますよね。でも歌手としての喉がハンパじゃなく良かったのです。
 
バンド「ビッグ・ブラザー&〜」を結成、モンタレーで大ブレイク
テキサスに帰ったジャニスを再びサンフランシスコに呼び戻したのは、かつて生活を共にした友人たち。ブルースバンド「ビッグ・ブラザー&ザ・ホールディング・カンパニー」に加入し行ったライブは大変な反響を呼び、野外イベント「モンタレー・ポップ・フェスティバル」にも出演。そこで全米に名を知られた彼女たちはメジャー・デビュー契約を獲得する。
【ムッシュから一言】
僕のジャニス・ジョプリンに対するイメージは、60年代後期にすでに70年代の音楽シーンを予感させていたという、ものすごさでしょうか。67年のモンタレーに始まる彼女とジミ・ヘンドリックスの活躍は、結局70年代のミュージシャンの理想とする姿でした。
 
高まる人気、それに伴い不満やプレッシャーも
メジャー第一弾「チープ・スリルズ」を全米ナンバー1に送り込み、ジャニスは時代を代表するロックスターとなった。しかし大きな成功を収めるにつれメディアはバンドの未熟な演奏力や彼女の奔放な発言を激しく攻撃。理想とする音楽の実現のため彼女はバンドから独立し、自分により相応しいバンドの結成を目指した。
【ムッシュから一言】
ビッグ・ブラザー&ザ・ホールディング・カンパニーは彼女にとって最高のバンドだったと思うし、アルバム「チープ・スリルズ」は20世紀のベストに入るアルバムです。シンガーとバンドのベストな間柄は、やはり人間関係の空間における不思議なヴァイブレーションだと思います。
 
遂に手に入れた理想のバンド、その矢先の死
紆余曲折の末ジャニスの理想とするブルースやソウルを演奏できるバンド「ザ・フル・ティルト・ブギー・バンド」を結成した彼女は、これまでで最高の内容となるはずだったアルバム「パール」を制作。しかし数年来彼女の大きな悩みの種となっていたドラッグとアルコールの摂取過多によりレコーディング途中で急死。キャリアは円熟期を迎えることなく突如打ち切られた。
【ムッシュから一言】
ジャニスは僕の知っている女性ヴォーカリストの中で、世界で一番かわいそうな人です。ベッド・ミドラー主演の「ローズ」という映画があったけど、これは彼女が亡くなったから出来たような物。
絵描きが描いた絵が、死んでから評価されるのと、生きてるうちに売れるのとどっちがいいのかなぁ。

シュープリームス

設立間もないモータウン・ファミリーに仲間入り
シュープリームスの歴史はダイアナとフローレンスが所属していたグループ「プライメッツ」にメアリーが加入した時点に始まる。地元デトロイトで運営を始めた「モータウン」の仲間入りを果たした彼女たちはレコード契約を獲得、グループ名も"最上"を意味する「シュープリームス」に改めた。
【ムッシュから一言】
ダイアナ・ロス、メアリー・ウィルソン、フローレンス・バラードの3人が「オリジナル シュープリームス」。日本ではまだ有名ではなかった1960年代初め東京、赤坂にあったナイトクラブ「コパカバーナ」でショータイムに出演していたのを見たけれど特別何も感じなかったのを憶えています。
たぶんその頃はフローレンスがメインだったと思います。
 
ダイアナがメインに。ヒット曲攻勢が始まる
モータウンの仲間たちが次々と人気者となる中、その名に反してヒットを飛ばすことが出来なかった彼女たちは、メインをそれまでのフローレンスからダイアナに交替。音楽性をよりポップにし、1964年に発表した「愛は何処へ行ったの」が初の大ヒットを記録。モータウン・レビューの花形的存在となる。
【ムッシュから一言】
その後メインをダイアナに交替してから、つまり1964年ごろからヒット曲を飛ばしているのですが、当時は確実にビートルズなどのUKロック一辺倒でしたのであまり知りません。
 
新世代のアーティストたちの後押しで復活
ひとたびヒットを飛ばし始めた彼女たちの勢いは止まるところを知らず、64〜66年の3年間に8曲もの全米ナンバー1ヒットが生まれた。この人気は一大ブームを巻き起こしていたビートルズに匹敵するものであり、新世代アメリカのポップスを代表するグループに育った。
【ムッシュから一言】
この頃のシュープリームスで僕が好きなのは「You Keep Me Hangin On」
という曲でした。ヴァニラ・ファッジもカヴァーしてます。これも最高!
 
ダイアナ独立のためグループ分裂、それぞれの道を歩む
ヒットが続くにつれグループはダイアナ中心の色彩を強め、それに反発して67年にフローレンスが脱退。メンバーを補充して体制はあと2年続いたが、ダイアナのソロ活動のため1969年末に彼女とグループは別の道を歩むこととなり、シュープリームスの黄金期は終わりを迎えた。
【ムッシュから一言】
ダイアナは確かに素晴らしいシンガーだけど、シュープリームスの末期は悲しいお話だね。

シンディ・ローパー

複雑な家庭環境に育った10代、故郷を捨て放浪の旅へ
1950年代のブルックリンに生まれたシンディは母子家庭に育ち、社会の保守的な価値観に馴染めぬまま多感な10代を過ごした。好きな音楽は常に彼女の傍にあったがこれを職業とするまでは考えていなかった彼女は17歳で家を出て職を転々としながら数年間放浪生活を送り、北米大陸中を旅して回った。
【ムッシュから一言】
シンディー・ローパーは歌が上手いね
ああゆう歌手はアメリカ内陸部、つまりカントリー系に多いのですが彼女はブルックリンなんですね。
若い頃は結構バックレていたらしいけどその長い下積み時代が良かったのでしょう。
 
音楽に天職を見出し、長い下積みの後ソロデビュー
70年代半ばにロックバンドのボーカリストの職を得た彼女は数々のカバー・バンドに在籍、その後78年に結成した「ブルー・エンジェル」でレコード・デビューも果たした。マネージメントとのトラブルなどで成功を収めることが出来なかったこのバンドの解散後ソロとして活動することを決心した彼女は作品を書き溜め、30歳にして再デビューを飾った。
【ムッシュから一言】
僕が彼女の歌を初めて耳にしたのは多分1983年の「She's So Unusual」だと思います。
日本びいきだとのことですが、確かいつかは分からないけど石川さゆりさんの「津軽海峡冬景色」を上手に歌っているのを見た事があります。
 
ファーストアルバムが大ヒット、時代の寵児となる
83年のアルバム「She's So Unusual」で華々しく登場した彼女は同作からヒットを連発、ユニークなプロモーション・ビデオも人気を博して一躍人気アーティストにのし上がった。ライブツアーに於けるパフォーマンスも好評で、結局アルバムは全世界で800万枚を超えるセールスを記録、この時代を代表する存在となった。
【ムッシュから一言】
この人のキャラはファニー好印象系"ウタスゴウマ"なので凄く長続きしそうですね。
日本だったら尾崎亜美さん系かな?
とにかく相当なばあさんになっても結構活躍してそう!
 
ブレイクから20年、彼女は現在も元気
セカンド・アルバム以降もナンバー1ヒット「True Colors」をはじめ80年代を通じてヒットを多数放った彼女はその後女優業にも進出、何本かの主演映画を制作し、TVのコメディ番組への出演で賞も獲得している。また90年代には一児をもうけ、アーティストとしても母としても現在なお充実した活動を行っている。
【ムッシュから一言】
そんなわけで彼女がこれからどんな活動をするのか楽しみでござんす。
僕的にはパンク&カントリー「パントリー」でもして欲しいな!

シンプリー・レッド

鮮烈なデビュー
80年代にUKから次々に登場したブルーアイド・ソウル・アーティストが80年代の終結とその運命を共にしたのに対し、リードヴォーカルのミック・ハックノールを中心に今も一線で活躍を続けるシンプリー・レッド。その彼等のデビューは1985年『ピクチャー・ブック』とデビューシングルとしてUKトップ20となったばかりでなく全米のR&Bステーションでも人気を博した「マネーズ・トゥ・タイト」の大ヒットだった。
【ムッシュから一言】
60年代だったら、「スペンサーデイビスグループ」とかが人気があったけど、同系のバンドとして80年代は確かにイギリスではシンプリー・レッドの時代だったね。
 
全米No.1、そして世界的ブレイク
返す刀で匂い立つようなミックの自作バラード「ホールディング・バック・ザ・イヤーズ」を全英2位そして全米No.1とし欧米で人気を確立、日本でもFMを中心に人気を獲得した。続く『メン・アンド・ウィメン』(1987)は意欲作だったが商業的には今一つ。しかし続く『ニュー・フレイム』(1989)では大幅なメンバー入替と往年のフィラデルフィア・ソウルの名作バラード「2人の絆」のミックによる素晴らしい再演が再び全米No.1を彼等にもたらした。
【ムッシュから一言】
サウンドのベースが、R&Bだ!って感じで、この2曲のバラードはどちらもいいメロディー&アレンジだったのを思い出してますね。このころ日本でもピークだったんじゃないかな?街を歩いていて良く聞いたよ。
 
傑作『スターズ』の完成
『ニュー・フレイム』の大成功で世界的な人気を強固とした彼等は、更にソウルIIソウルらとの共演で知られる日本を代表するグルーヴ・アクティヴェイター、屋敷豪太をメンバーに迎えて彼等の最高傑作といわれる『スターズ』(1991)を完成。アメリカでは特に話題とならなかったが音の完成度では群を抜いたこのアルバムは英日で絶大な支持を受け、シングル「Fairground」は待望の全英No.1を獲得した。
【ムッシュから一言】
解説にもあるけど、確かにこの頃からスティーリー・ダン的になっていって、屋敷豪太が加入して何年かやっていたよね。しみじみした感じのマンチェスターサウンドもあったりしてミックのハスキーヴォイスが好きだったなあ。
 
シンプリー・レッドよ、どこへ行く?
90年代に入って『Life』(1995)、『ブルー』(1998)と堅実な作品を発表するも『ニュー・フレイム』『スターズ』といった作品を超えるには至らず、最新作の『ラヴ・アンド・ロシアン・ウィンター』(1999)に至っては商業的にもぱっとしないという状況。ミックも昨年からレーベルとのゴタゴタや誤認逮捕の被害に遭うなど冴えない話題が続いているが、それらを振り切ってあのハスキーな歌声による力強い新作を期待したいものだ。
【ムッシュから一言】
「スターズ」はいいアルバムだったのを覚えているけれど、それ以降は確かに名前を聞かない ね。僕もいろいろなミュージシャンの人たちとやることが多いけど、ミックもまた新たにパートナーをみつけて頑張ってほしいね。

スティービー・ワンダー

「12歳の天才」音楽シーンに登場
盲目の少年スティービーがハーモニカをかかえ音楽シーンに登場したのは1962年のこと。翌63年に発表したライブアルバム「12歳の天才」が評判を呼び、カットされたシングル「フィンガーティップス」がヒットチャートの1位を記録。一大センセーションを巻き起こした。
【ムッシュから一言】
その天才少年を初めて見たのは「エド・サリバンショー」でビートルズを見ようとテレビのスイッチを入れた時でした。彼はたしか「アルフィー」という曲をハーモニカで演奏していました。今考えてみると後年「ジャクソン・ファイブ」でマイケル・ジャクソンを初めて見た時と同じ驚きでした。
 
作曲やプロデュースで非凡な才能を開花
当初は一発屋的な印象のあったリトル・スティービーが、ヒットチャートの常連的存在になるのは1965年の「アップタイト」以降のこと。自作曲も徐々に増え、その作品は他のアーティストたちからも注目され「マイ・シェリー・アモール」「太陽のあたる場所」などがスタンダード化した。
【ムッシュから一言】
その後、ヒットチャートの常連的存在になるのは1965年の「アップタイト」以降であるが、同時に作曲、プロデュースで非凡な才能を開花させる。当時モータウン・レコードのプロモーションでマーサ&ヴァンデラスと共に来日した際会う機会があったが、やはり天才のオーラというか凄い物を感じた。
 
音楽制作の自由を獲得し、独創的な世界を展開
1970年代に入り、成人したスティービーは音楽制作に関するあらゆる権限をレコード会社から譲り受け、独創的なアルバム制作を開始。次々と発表される作品はどれも音楽ファン及び業界の高い評価を受け、毎年のようにグラミー賞を独占する"独り勝ち状態"となった。
【ムッシュから一言】
1970年代の音楽界は彼の"独り勝ち"。音楽制作の自由を獲得し、独創的で質の高い音楽を次々と生み出してましたね。僕は中でも「インナービジョンズ」「トーキング・ブック」等々最高に好きなアルバムがある。「東京音楽祭」にゲストで来日した時ごくごく内輪で行われた彼のGIGを見る機会を得て、やっぱりスゲーと思った。
 
20代後半にして早くも円熟期へ
1970年代半ば、制作ペースをややスローダウンさせた彼の作品は、より深い精神世界や広い視点からの愛を歌うなど、格段の深化が見られるようになった。円熟の30代に印象深いラブソングを多数残したスティービーは、現在も世界各地に赴き「心の愛」を歌い続けている。
【ムッシュから一言】
最近彼の音楽をあまり聴かなくなった理由は、作品にかつてのファンキーさが無くなり「心の愛」的精神世界なので、僕にはちょっとヘビーなのです。また1970年代の初めのような音楽をやってもらえたら、聴きます。(笑)

スティーリー・ダン

都会派ポップの誕生
70〜80年代にジャズベースのクールで都会的ポップ・ワールドを構築したスティーリー・ダンのスタートはドナルド・フェイゲンとウォルター・ベッカーがNYのバード・カレッジで出会った1967年。2人はNYをベースに作曲や他のアーティストのバックなどを経て1972年にジェフ"スカンク"バスター(g)らとスティーリー・ダンを結成。デビュー作『キャント・バイ・ア・スリル』からのトップ10ヒット「ドゥ・イット・アゲイン」で商業的にも批評家筋からも絶賛のデビューを飾った。
【ムッシュから一言】
僕は初期が特に好きでそのなかでもギターのジェフ・バクスターが好きでしたね。スニーカーっていうバンドが日本に来た時あるお店で一緒に飲んでセッションもしたのを思い出したよ。日本のミュージシャンに例えると今剛(こんつよし)かな僕もスパイダースがそろそろ終わりに近づいてきていた時だったから研究しましたよ。一言で言うと彼らの音楽って屈折芸術だと思うんだ。それまでの音楽より複雑だし、いい意味でね。余談だけどフェイゲンの奥さんもアーティストだと初めて知った。彼女のアルバムも興味あるなぁ
 
ジャズとの融合で頂点を極める
『エクスタシー』(1973)は商業的には今一だったが、ジェフ・ポーカロ(後にトト)やマイケル・マクドナルド(後にドゥービー・ブラザーズ)を加えた『プレッツェル・ロジック』(1974)は全米大ヒット「リキの電話番号」を産みポップ界での人気を確立。しかしグループはこのライヴ活動を中止、ドナルドとウォルターを核としたスタジオ・ユニットへと変貌、ジャズ界の名うてのミュージシャンで固めた傑作『彩』(1977)で頂点を極めた。
【ムッシュから一言】
POPグループとして確立したのがこの頃でジェフ・ポーカロやマイケル・マクドナルドが入って商業的にも成功してたし、パーフェクトだったのを思いだします。音は複雑なんだけどね。ジャズのテイストを大事にした音っていうか70年代後半は誰もが知っているジャズ界のミュージシャン達とスタジオ・ワークが主になっていったね。実に凄い奴ばかり!正直、LIVEを聴くと違った意味で安心する(笑)彼らは音源で勝負してたから良かったのかもね。
 
解散、そしてソロ活動
すかさず『ガウチョ』(1980)で前作の方向性に磨きをかけたがこの2作で燃え尽きたかのように1981年解散。ドナルドは1982年に『ナイトフライ』を発表、ジャズ寄りのクールなサウンドで健在ぶりを示す一方、ウォルターはマイケル・フランクスらのプロデュースなどで80年代は静かな活動で終始。90年代に入りドナルドはより繊細な『カマキリアド』(1993)を、そしてウォルターが『11トラックス・オブ・ワック』(1994)を発表し再結成への期待は高まった。
【ムッシュから一言】
詞も曲も屈折していて、今やいろんな音楽が世の中にはあるけれど、2小節とか4小節だけなのに24時間レコーディングしたりしてたらしいからアナログな感じの完ぺき主義者って感じがするんだよね。フェイゲンとベッカーが正反対な感じがするんだけどお互いチェックし合いながら間違った物は出さない感じ。ソロとして充実してた時期だったんじゃないかな。
 
15年ぶりの復活と新たなる栄光
いよいよ93ー94年に日本を含むツアー再開、その様子を収めた『アライヴ・イン・アメリカ』(1995)で事実上再結成を果たした2人が満を持して発表したのが『トゥ・アゲンスト・ネイチャー』(2000)。彼ら独特の音世界に更に磨きのかかった本作は何とグラミー賞最優秀アルバムなど4部門受賞し彼らのキャリアの頂点を極める作品となった。同年めでたくロックの殿堂入りも果たした2人、まだまだ今後も独自の世界を聴かせてくれるに違いない。
【ムッシュから一言】
まだまだ現役の2人が去年出したのが「トゥ・アゲンスト・ネイチャー」なんだけど改めて聴いてみるのをオススメしますね。やっとグラミー賞という形で認められた彼ら。何年後かわからないけど次回作も楽しみだね。僕より10歳ぐらい若いんだからまだまだ!今後も注目していきたいですね。

スティング

技巧派が集まり“パンク・バンド"を結成
ジャズ・バンド出身のスティングとプログレ・バンドにいたスチュアートが出逢い、ポリスを結成したのは1977年のこと。翌年ベテラン・ミュージシャンのアンディ・サマーズを加えメジャーデビューを果たし「パンク・レゲエ」というユニークな音楽スタイルが注目された。
【ムッシュから一言】
スティング!皮肉屋さん?オフコースの小田さんみたいに頭良さそー!
ジャズマンだったとは知りませんでした。
CIAの親から生まれたスチュアートは中東生まれでアンディーはクラシックから民族音楽まで幅広い音楽知識の持ち主。 こんな人達だからこその「パンク・レゲエ」?ユニークなサウンドだったねえ。
 
「見つめていたい」で世界制覇を果たす
バンドは精力的にツアーを回り、アルバムセールスは作を重ねる毎に増加。ニューウェーブ世代の中では1、2の人気を誇るバンドに成長し、83年のアルバム「シンクロニシティ」からカットされた「見つめていたい」はその年一番の大ヒットとなったが、成功に比例してメンバー間の軋轢も増し、ポリスは人気絶頂時に活動を休止した。
【ムッシュから一言】
「見つめていたい」が大ヒットでハッピーなのにご多分にもれず成功したとたん軋轢が増して活動休止って良くある事なんだよねぇ
ニューヨークのホテルのロビーで外国人が「ポリスだ!ポリスだ!」と騒いでいるので私の友人がドアボーイに「私服ですかねぇ」と聞いたそうです。
ちなみにその友人は堺マチャアキさんという人です。(笑)
まだポリスが売り出し中の頃だったんだって!
 
バンド解散後ソロでも成功を収める
グループ活動を休止した1984年、スティングは精鋭のジャズ・ミュージシャンを集めて自己のバンドを結成。
発表したアルバムは大ヒットを記録し、ライブ・パフォーマンスも各地で絶賛されソロとしての人気を確立する。円熟したパフォーマーに成長した彼はグラミー賞の常連的存在となり、その評価をますます高めた。
【ムッシュから一言】
皆それぞれやりたい事やっているようですがスティングは日本映画でJAZZの名曲「My Funny Valentine」を歌っているのだけれどこれがすごくいいと思います。
やはりキャリアのスタートであるjazzに傾いてきたのかな?
 
ソロキャリア20年を迎え、なお精力的に活躍
90年代以降もコンスタントにアルバムを発表し続ける傍ら、環境保護や人権問題にも熱心に取り組むスティングの姿勢に共鳴するファンは多く、彼は現在もツアーで世界中を飛び回っている。先日久々に実現した来日公演も売切れが続出し、彼の根強い人気者振りを証明している。
【ムッシュから一言】
1980年代香港で「恋人よ」でヒットした五輪真弓さんがでっかいスタジアムでコンサートやった時「ポリス」はディスコでGIGやってたんだってさ!
だからロックビジネスは面白くてしょうがないネ!!

スリー・ドッグ・ナイト

ポップ・ロック混迷期に登場したTDN
1960年代後半はポップが3分間ポップからサイケデリアへと移行し、ロックもそれにシンクロするかのように1969年のウッドストックを一つの契機としてジャニス、ジミヘン、クリーム、ツェッペリンといったブルース+サイケデリアを昇華したようなサウンドが主流に踊り出た時代。そんな中白人ボーカル3人組+4人バンドという構成で登場したスリー・ドッグ・ナイトはソウルフルな3人ボーカルとハードロック的サウンドのバンドサウンドで1969年当時まだ無名だったニルソンの「ワン」をいきなり全米トップ10ヒットとし、一躍ポップ・シーンに登場。同年ミュージカル『ヘア』からの曲「イージー・トゥ・ビー・ハード」、同じく当時まだ無名のローラ・ニーロの「イーライズ・カミング」を次々に送り込んだTDNは一気にポップ・スターの座を不動のものにしたのだった。
【ムッシュから一言】
1971年頃、私は「フリー」と言うグループの大ファンでそっち系の音楽しか聴いていませんでした。 ところが何やら原宿のカフェでしたかスリー・ドッグ・ナイトの「ママ・トールド・ミー」とか「喜びの世界」が流れて来たのを耳にした時からこんなイヤなグループが出て来てヒットしたのはロックの終りだと思ったし、そうなってしまいました。
 
全米ナンバーワンの連発
2作目の『融合』(1969)からの3連続トップ10ヒットで勢いに乗った3DNはいきなりライヴアルバム『白熱のライヴ』(1969)を初のトップ10アルバムとするや、矢継ぎ早に次作『イット・エイント・イージー』(1970)を発表。当時まだアメリカでは無名のエルトン・ジョンの「ユア・ソング」等を含むこのアルバムからカットされたランディ・ニューマン作の「ママ・トールド・ミー」は70年夏に初の全米ナンバーワンを達成、彼等2枚目のゴールドディスクとなる大ヒットを記録した。続く『ナチュラリー』(1971)からのシングル「喜びの世界」は実に6週連続全米ナンバーワンを記録する彼等最大のヒットとなったばかりか、この年の年間ナンバーワン・シングルとなるなど、1970〜71年のスリー・ドッグ・ナイトはキャリアの絶頂を極めていた。
 
そして活躍は続く
1971年の活躍はこれに止まらず、ベスト盤『ゴールデン・ビスケッツ』(1971)を3枚目のトップ10アルバムにしたかと思うと続けてオリジナル5作目『ハーモニー』(1971)を発表。シングル「オールド・ファッション・ラブ・ソング」「ネバー・ビーン・トゥ・スペン」も次々に全米トップ10を記録。また全米ツアー会場としてピッツバーグのスリー・リヴァース・スタジアムといった巨大会場を選択するなど、後のアリーナ・ロックの先鞭を付けるようなライヴ活動を行ったのも当時のポップ系アーティストとしてはユニークな試みだった。通算5枚目のトップ10アルバムとなった続く『セブン・セパレート・フールズ』(1972)からは彼等の魅力が最も発揮されたシングル「ブラック&ホワイト」が3曲目のナンバーワンとなり、彼等の活躍は止まるところを知らないかに見えた。
 
人気のかげり、そして解散
しかし、白人3人によるソウルフルなボーカルで知られざる名曲をヒットにするというモデルも70年代中盤になりシーンが多極化する中でその神通力を失って来た。ゴスペルチックな異色作『シャイアン』(1973)からの「シャンバラ」、グループというよりもソロ曲の寄せ集めといった趣の『ハード・レイバー』(1974)からのレオ・セイヤー作の「ショー・マスト・ゴー・オン」を最後にトップ10ヒットも後を絶ち、『カミング・ダウン・ユア・ウェイ』(1975)からの「愛は幻に消えて」が最後のヒットとなった彼等は『アメリカン・パスタイム』(1976)を最後に解散。その後コリーとダニーの2人は今でもオールディーズ・サーキットで往年のヒット曲を披露し、当時のファン達の熱い思い出を蘇らせているとのことである。
【ムッシュから一言】
一つだけ彼らの事をナカナカだと思うのは、他人の曲を上手にカヴァーしたと言う事でしょう。
コトに無名だったソングライターの曲から選曲してそれをヒットさせてしまう。これがすごい!
例えばニルソン、ローラ・ニーロ、ランディー・ニューマン、ポール・ウィリアムス、ホワイト・アクストン、ラス・バラード、デイヴ・ロギンス、レオ・セイヤー、ジョン・ハイアット、アラン・トゥーサン、エルトン・ジョン、これはエライ!

セックス・ピストルズ

ロックの歴史を変えたバンド
重厚長大を良しとした70年代的音楽価値観を根底から突き崩したニューウェイヴの中でもパンク・ロックのパイオニアとしてロック・ファンの価値観に大きく影響を与えたのがこのセックス・ピストルズ。2~3分間の何の化粧も施さないローなロックンロールに乗って無政府主義、暴力、ファシズムといった政治的なメッセージを叩き出すこのバンドの出現は、50年代のエルヴィス・プレスリーや60年代のビートルズに匹敵する程の衝撃と影響を将来のロック・ミュージシャン達に与えたといっても過言ではない。ジョン・ライドンとシド・ヴィシャスという2人のカリスマ的なキャラクターを擁していたとはいえ、彼らのセックス・ピストルズとしての活動期間が僅か2年間程であったことを考えるとその存在感たるや並々ならぬものがあったのだ。
【ムッシュから一言】
こんなすごいバンドは未来永劫、出現する事はありえない!衝撃!とにかく衝撃!ただただ衝撃的でした。
 
それはブティックで始まった
時は1975年。ギターのスティーヴ・ジョーンズとドラムのポール・クックは元ニューヨーク・ドールズのマネージャーで後にロンドンのニューウェイヴ旋風の仕掛人として知られるマルコム・マクラレンのブティック『セックス』の常連で、オリジナルのベース担当のグレン・マットロックはそこの店員だった。折から現れた狂気のボーカリスト、ジョニー・ロットンことジョン・ライドンを加え伝説のパンク・バンドは誕生した。翌年ひたすらラウドで政治的なシングル「アナーキー・イン・ザ・UK」で鮮烈なデビューを果たした彼らは、デビュー曲のあまりの過激さに所属していたEMIレーベルが即座に契約を打ち切った程。この騒ぎがハイプを呼んだ彼らは続いてヴァージン・レーベルから放った、女王を嘲笑するかのような「ゴッド・セイヴ・ザ・クイーン」で見事全英2位の大ヒットをマーク、問題児としての地位を確立した。
【ムッシュから一言】
このバンドを仕掛けた元ニューヨーク・ドールズのマネージャー マルコム・マクラレンから始まったブティックのムーブメントなんだね ブティック関係の人は結構過激ですから音楽より先に行ってます。
 
破滅的なロック・ヒーロー
BBCで放送禁止となった「ゴッド・セイヴ~」からバンドにシド・ヴィシャスが首になったマットロックに代わって加入。ベースなど満足に弾けなかったシドの加入がピストルズに与えたのは、ジョン・ライドンが作り上げた暴力的で政治的に過激な曲にぴったりのイメージを与えて、バンドのメディア効果を最大限に増幅することだった。これが見事に機能し、バンドは「プリティ・ベイカント」「ホリデイズ・イン・ザ・サン」等次々に全英トップ10ヒットを連発。その絶頂期にリリースされたデビュー・アルバム『勝手にしやがれ!』は堂々全英No.1に。翌1978年にはマルコム・マクラレン制作のパンク・ロック・ムーヴィー『グレイト・ロックンロール・スウィンドル』に出演、シドはシナトラの「マイ・ウェイ」をグチャグチャのアレンジで怪演しこれまた大ヒット。彼らのスターダムここに極まれりという状態だった。
【ムッシュから一言】
このマルコムの代理戦争の鉄砲玉として ジョニー・ロットンそしてシド・ヴィシャス、これでパーフェクト! そしてやはりドラッグなのです。
 
破滅、空中分解、そして再結成
そんなピストルズの終わりの始まりは1978年1月にスタートした初の全米ツアー。僅か14日間のツアーの最後にジョン・ライドンは脱退を宣言、かくしてバンドは崩壊。ジョンはその後パブリック・イメージ・リミテッドを結成して全くパンクとはほど遠いエスニックでラウンジなロックを追い求めていった。破滅の象徴シドは10月にNYで恋人ナンシー刺殺の疑いで逮捕、保釈の後まもなく1979年1月にヘロインの過剰摂取で21歳の若さでそのただ疾走するだけの人生を終えた。1996年、バンド結成20年を記念した再結成ライヴが敢行され、その模様は『勝手に来やがれ!』なるライヴ盤に収められたが、そのステージにいたのはかつてパンク・ロック全盛期に一番忌み嫌っていた金のために演奏する体制の手下に成り下がったジョン・ライドンとその仲間の姿だった。
【ムッシュから一言】
セックス・ピストルズ!破滅的ではなく完全に破滅! こんな美しい事が3年近く続いたなんて 夢のアートでございます。