Monsieur Voice / ムッシュ@Rock 

1999〜2017 携帯サイト"ARTIST NUDE"より

【タ】


 

チャック・ベリー

R&R時代の幕開けと共にシーンに登場
セント・ルイスのローカルシーンで人気者となっていたチャック・ベリーは、 1955年にブルースの本場シカゴに乗り込んでレコード会社に売り込みを図る。 作品が認められてレコードデビューしたのは折りしもR&Rブームが盛り上がりを見せ始めた時期でデビュー曲「メイベリン」はたちまちヒットを記録。 一躍人気アーティストの仲間入りを果たした。
【ムッシュから一言】
1950年代の後半、当時の米軍放送(WBTR)から奴の音楽が聞こえてきました。
僕は愛車である「MG・TF」のカーラジオで聴いてました。
黒人にしてはやけに南部系白人好みという感じのロックンロールなのでインパクトがありしかも歌詞のなかに 「オメコ!オメコ!」と聴こえる部分があったりして大注目したのであります。
その曲が「Too Much Monkey Business」です。
 
相次ぐヒット、しかし突然襲ったトラブル
R&Rの名作が次々と生まれた1950年代後半、中でもベリーの作品の出来は出色であった。 「ジョニーB.グッド」「ロックン・ロール・ミュージック」「ロール・オーバー・ベートーベン」などの古典が次々と送り出され、彼の創作性は頂点を迎える。
しかし、1960年代に入ると彼はトラブルに巻き込まれて投獄され、数年間を棒にふる事態に陥る。
【ムッシュから一言】
その後、「J.B.G」「R&R・M」「R・O・B」とか現在となっては古典といわれる名曲を世に送り出しましたが、 僕は60年代になってビートルズ、ストーンズ等のイギリスバンドによって再びチャック・ベリーと出逢いました。
 
新世代のアーティストたちの後押しで復活
獄中から復帰した1964年、音楽シーンはビートルズやローリング・ストーンズなど、少年時代にベリーの音楽を浴びるように聴いてバンドを始めたようなイギリスのアーティストたちがヒットチャートを占領していた。この追い風を受けて復帰作を発表した彼はヒットチャートへの返り咲きに成功、時にはそのイギリス勢たちを従えてツアーを行い、各国で大喝采を浴びた。
【ムッシュから一言】
1960年代後半、ザ・スパイダーズ全員でアメリカの西海岸を旅行した時ビル・グラハムのヒルモア・ウエストにスティーヴ・ミラーバンドを見に行きました。
彼らのステージの後半、なんと!チャック・ベリーが乱入してお馴染みのナンバーを1時間ぐらいダッグウォークありつつのPLAYを見ることが出来ました。
これはデカイ想い出です。
 
「キング・オブR&R」は今日も健在
復活後の彼は以降40年一貫してツアーに明け暮れる毎日を送っている。1972年にはライブ録音から生まれた珍曲「My DingーAーRing」がキャリア18年目にして初の全米ナンバー1に輝くという“珍事”に恵まれ、80年代にはオールスターバンドによる彼の伝記映画も製作。今日も彼は日本も含めた世界の何処かで、お馴染みのナンバーを披露しているはずである。
【ムッシュから一言】
僕にとってチャック・ベリーはロックンロールミュージックの先生であり、良くも悪くもロックン・ローラーの見本だと思う ぐらい"リスペクト"しているのです。

チャカ・カーン

ルーファス&チャカ登場
70年代から80年代にかけてアレサと並び君臨したチャカ。
その強烈な個性と歌唱力はファンのみならず他のシンガー達をも魅了してやまず、数々のフォロワーを生んできた。
そんなチャカはサウス・シカゴ生まれ。11歳の時にはもうクリスタレッツというグループのリードボーカルを取っていたという。
そんな彼女のブレイクは18歳の時L.A.で結成したR&Bファンク・バンド、ルーファスとの出会いだった。
「小アレサ」の異名を取ったチャカのパワフルなボーカル満載の『ルーファス』(1973)で衝撃のデビューを飾った彼らは続く『ラッグス・トゥ・ルーファス』(1974)からあのスティーヴィー・ワンダーがチャカのために書き下ろした「テル・ミー・サムシング・グッド」(3位)が初の大ヒットに。
しかも同曲が彼女に取って初のグラミーを獲得し、彼らのファンク・バンドとしての地位は揺るぎないものとなった。
【ムッシュから一言】
炎と言う名前を持つ彼女は確かにまさにといった感じ!
 
ソロキャリアへの脱皮
勢いに乗る彼らは『ルーファサイズド』(1974)『ルーファス・フィーチャリング・チャカ・カーン』(1975)といったアルバムから「ワンス・ユー・ゲット・スターテッド」(10位)「スイート・シング」(5位)といったヒットを連発。
後に名曲「エイント・ノーバディ」をものするホーク・ウォリンスキを加えた『アスク・ルーファス』(1977)以降はジャジーな曲もこなすクロスオーバー・ファンク・バンドへと脱皮したルーファスだったが、チャカの活躍はここから。
後にホイットニー・ヒューストンがカバーするソロ初ヒット「アイム・エヴリー・ウーマン」(21位)を含む『恋するチャカ』(1978)で見事なソロデビューを飾ったチャカはこの年長男を出産、公私共に充実した年に。
ところがチャカのソロ活動がルーファスのメンバーとの問題となり、ついにルーファスはライヴ作『サヴォイでストンプ!』(1982)とグラミー受賞曲「エイント・ノーバディ」(22位)のヒットを最後に解散となった。
【ムッシュから一言】
僕はルーファスの大ファンで特に77年のデヴィッド・"ホーク"・ウォリンスキが加入してからが好きなのですが、 チャカとホークのヴォイスが凄くマッチしたのだと思います。
 
80年代を代表するソウル・ディーヴァ、チャカ
チャカの80年代は『ノーティ(じゃじゃ馬馴らし)』(1980)、そして同名ヒットを含む『恋のハプニング』(1982)で威勢良く幕を開けた。
続く『ビバップを歌う女』(1983)ではチャカのジャズ・ボーカル能力をいかんなく発揮したグラミー受賞曲「ビバップ・メドレー」や息を呑むようなマイケル・ジャクソンの「ガット・トゥ・ビー・ゼア」のカバーなど彼女のボーカル・スキルの頂点を感じさせた。
しかし彼女の80年代での存在感を決定付けたのは次の『フィール・フォー・ユー』(1984)からのタイトル・カットの大ヒット(3位)だろう。
当時最高のヒップホップDJだったグランドマスター・メリー・メルがイントロで「チャカチャカチャカチャカカーン」とラップし、スティーヴィー・ワンダーがハーモニカを入れた、プリンスのカバー曲であるこの曲は当時MTVの映像も相まってチャカのシーンでの存在感を決定付けたのだった。
【ムッシュから一言】
78年の「ストリート・プレイヤー」での「ステイ」は本当に最高だと思います。
 
ジャズへの傾倒と円熟の活動
80年代後半は第2の『フィール・フォー・ユー』を求めるワーナーと、『C.K.』(1988)に見られるジャズ系への傾倒を深めるチャカとの関係が不調で、充分にプロモーションされなかったこともあり爆発的な大ヒットには恵まれず。
沈黙のまま90年代を迎えたチャカはクインシー・ジョーンズのグラミー受賞作『バック・オン・ザ・ブロック』(1990)で故レイ・チャールズらと競演した「アイル・ビー・グッド・トゥ・ユー」でグラミー受賞、続く『ウーマン・アイ・アム』(1992)でもグラミーに輝くなど堅実な活動で存在感を示し、98年にはあのプリンスのレーベルからジャズ・ファンクと粘質性のR&B満載の『カム・2・マイ・ハウス』で健在ぶりを示してくれた。
近年はジャズ寄りの活動が目立つチャカだが、昨年のヒップホップの話題カニエ・ウェストが「スルー・ザ・ファイヤ」でサンプルするなどブラック界のリスペクトは依然高く、新作が期待されるところだ。
【ムッシュから一言】
ソロになってからもすごいアルバムを出しているけれど僕はチャカ&ルーファスが最高に好きです。
HIPHOPにまでなんて女性は本当に凄い!

デビッド・ボウイ

グラムロックを制覇したニュースター登場
何が出てきてもおかしくない、そんな60年代末期ロンドンから登場したのがこの男、デビッド・ボウイ。デビュー前から地元で評判だったボウイーは『デヴィッド・ボウイ』(1967)と同年当時グラムロックを代表する人気バンド、Tレックスの前座を務めたライヴでデビュー。その後ボウイは「スペイス・オディティ」(1969)の全英大ヒット(5位)、同名アルバム(1969)、『世界を売った男』(1971)、そして初期の代表曲「チェンジズ」を含む『ハンキー・ドリー』(1972)と立て続けにグラムロックベースのシアトリカルなサウンドでシーンでの注目を集め、72年には自らのバイセクシャリティを公表したかと思うと名盤『ジギー・スターダスト』発表とスパイダーズ・フロム・マーズを率いた大規模な英米ツアーを敢行。アメリカでも遂にブレイクしたボウイは世界でスターとしての地位を確固たるものにしたのだった。
【ムッシュから一言】
ショービジネスの世界で大成功をするのは文武両道、つまり強力なエンタテナーであり最上級のビジネスマンでなくてはならない。
彼はそんな人かもしれない。
 
アメリカンR&Bとボウイの融合
スターダムを極めたボウイは73年同路線の『アラディン・セイン』とカバー集『ピンナップス』をリリース、そして翌年発表のG・オーウェルの小説『1984』をモチーフにした『ダイヤモンドの犬』は初の全米トップ5を記録。これがきっかけとなったかロスに移住したボウイは続く『ヤング・アメリカン』(1975)ではアメリカのソウル・ミュージックに影響を受けた「プラスチック・ソウル」を展開、ジョン・レノンとのデュエット「フェイム」は初の全米1位を獲得し、ソウルとボウイの融合はアメリカに新たな多くのファンを作り出した。しかしボウイは映画『地球に落ちて来た男』(1976)への主演などの活動を経て、続く『ステイション・トゥ・ステイション』(1976)は全米3位とアメリカでの最大のヒット作となったが、内容的にはヨーロッパ・デカダンスへの傾倒を深めていた。
【ムッシュから一言】
18才ぐらいでバンドを始めてまだ数年みたいな時にデイビー・ジョーンズという名をボウイに改名したエピソードを知った時やはりしっかりしているというか薹が立ってるというか好きじゃねぇーと思いました。
 
ヨーロピアン・エレクトロニクスへの傾倒とビジュアルとの融合
ドイツ・デカダンスを崇拝するキャライメージに乗り換えたボウイはベルリンに移住、元ロキシー・ミュージックのブライアン・イーノと組んだ『ロウ』(1977)、次いで元キング・クリムゾンのロバート・フリップを迎えた『ヒーローズ』(1978)でギターロックとエレクトロニックスの融合による極めて先進的な作品を展開した。続く『ロジャー』(1979)『スケアリー・モンスター』(1980)も同路線であると同時に収録曲のアーティスティックなビデオも発表、音楽とビジュアルの融合という時代の先を行く表現方法を早くも確立した。またこの時期のボウイは映画や舞台でも活躍し前者では『ジャスト・ア・ジゴロ』(1978)、『クリスチーネF』(1981)や吸血鬼役の『ハンガー』そして日本のファンお馴染みの大島渚監督『戦場のメリークリスマス』(1983)、後者ではブロードウェイでの『エレファント・マン』(1980)の主演などが有名。
【ムッシュから一言】
何でも出来るし何でも成功させるタイプの人ですが「スペイス・オディティ」で僕自身は彼を知り、70年代になって「モット・ザ・フープル」をプロデュースしたアルバムでスゲーと思いました。
もちろん僕が「モット・ザ・フープル」マニアだったのは言うまでもありません。
 
ファンクへの回帰、そしてインダストリアルとドラムンベースの向こうに見えるもの
スタジオに戻りシックのナイル・ロジャースを迎えて発表した『レッツ・ダンス』(1983)はMTVとの融合も相まって、ボウイに全世界規模の大ヒットと2曲目の全米No.1ヒットをもたらした。続く同路線の『トゥナイト』(1984)、ギターロックの『ネヴァー・レット・ミー・ダウン』(1987)と不作が続いたボウイは、ティン・マシーンを結成しアルバム3枚を発表するがこれも不作。しかし不屈のボウイは『ブラック・タイ・ホワイト・ノイズ』(1993)でアメリカンファンク基調サウンド、『アウトサイド』(1995)ではインダストリアル・サウンド、そして『アースリング』(1996)ではドラムンベースやテクノと様々な先鋭音楽フォームを乗りこなした。96年ロックの殿堂入りを果たしたボウイはその後も『アワーズ』(1999)『ヒーザン』(2002)そして最新の『リアリティ』(2003)でこれらの全ての音楽フォームをボウイ・サウンドに昇華して見せてくれている。2004年は8年ぶりの来日も予定されているボウイの活躍に期待。
【ムッシュから一言】
今年来日した時のステージを見た人々は皆大評価をしていました。
その理由はサイボーグみたいなイメージだったボウイがすごく自然体でステージを見せていたんだとさ。
これは時代とか全てを読んでるボウイ自身の隠れショウビズMRI(CTスキャン)機能であるであろう。そして彼のファンもそれを楽しんでいるのかもしれない。
ボウイはこれからも猫の目のようにその姿を変え続けるでありましょう。

デュラン・デュラン

ニュー・ロマンティック・ブームにのって音楽シーンに登場
バーミンガムの高校で一緒だったニック・ローズとジョン・テイラーは、デヴィッド・ボウイのきらびやかさにディスコのビート、そしてニューウェーブの要素を取り入れたバンド「デュラン・デュラン」を78年に結成、度重なるメンバー・チェンジの後レコード契約を結んだ80年には彼らのルックスは評判になっており、デビュー早々人気グループの仲間入りを果たした。
【ムッシュから一言】
ニューロマンティック系音楽、僕はあまり好きじゃない。つまり「ルックス」を前面に押し出す的バンドのことです。スパイダース時代のタイガースに対するジェラシー?そんなものがトラウマとして僕の中にあるのかも...ケケケ。
 
アメリカ進出に成功、時代のトップグループに
ヨーロッパでの人気を受けて彼らはアメリカに進出、折りしもMTVブームの最中で、繰り返し流されたプロモーション・ビデオはそのルックスからたちまち評判になりアイドル的人気を獲得。60年代のビートルズ以来と言われた「ブリティッシュ・インベーション」の中心的グループとして83〜85年にかけてTOP10ヒットを連発した。
【ムッシュから一言】
このバンドは売り出しプロモーションの展開が凄かったので代表曲とか全然知らないけど、顔は良く知っていました。プロモビデオの凄さかな?結構ファンクバンドでしたよね。
 
サイド・プロジェクト成功の後、グループは分裂へ
ヒットチャートの頂点に立った彼らは、続いてジョンとアンディが「パワー・ステーション」、サイモン、ニック、ロジャーは「アーケイディア」とユニットを結成し、それぞれTOP10ヒットを記録。しかしこれがグループの結束を弱めたのか86年にロジャーとアンディが相次いで脱退。グループはトリオとして活動を続けたが、セールスは徐々に先細り始めた。
【ムッシュから一言】
人の良いストーンズのキースリチャーズが自分達のコンサートを観にこないかい?とデュランデュランの奴を誘ったら、「親父とおふくろに言っとくよ」とけんもホロロに言い返されたと当時何かの音楽誌に載っていた。俺は頭に来たね!まあ当時は大ブレイクしていて思いっきり突っ張っていたんでしょう。
 
10年の低迷を経てオリジナル・メンバーで再結集
90年代前半に大ヒットした「オーディナリー・ワールド」を例外として、デュラン・デュランはもはや「時代遅れのグループ」として音楽ファンの注目を集めることはなくなった。しかし21世紀に入り再び80年代の音楽が再評価されるようになると彼らはオリジナルの5人で再結成、ツアーは大盛況となり、ニューアルバムも発売されている。
【ムッシュから一言】
最近再結成してツアーやってるけれどヴィジュアル系、つまりイケメン系の老化って 見ていて結構ヘビーかもしれない。でもそれなりにリスペクトあるから成功しちゃうのかな?

テンプテイションズ

デトロイトで実力派が集いグループ結成
テンプテイションズの長い歴史は、プライムスとディスタンスという2つのグループの出逢いに始まる。地元デトロイトで人気を博していた両者は解散を機に選抜メンバーで再編、名をテンプテイションズと改め新進レーベル、モータウンと契約。その後の快進撃の礎を築く。
【ムッシュから一言】
自分自身、黒人コーラスグループをあまりちゃんと聞いた事がなくて特に60年代初めはチャック・ベリーとコースターズぐらいかな?
 
デトロイトで実力派が集いグループ結成
テンプテイションズの長い歴史は、プライムスとディスタンスという2つのグループの出逢いに始まる。地元デトロイトで人気を博していた両者は解散を機に選抜メンバーで再編、名をテンプテイションズと改め新進レーベル、モータウンと契約。その後の快進撃の礎を築く。
【ムッシュから一言】
自分自身、黒人コーラスグループをあまりちゃんと聞いた事がなくて特に60年代初めはチャック・ベリーとコースターズぐらいかな?
 
「サイケデリック・ソウル」路線に転向、問題作を次々と発
黄金のモータウン・クラシックを次々と生み出した彼らも、ラフィンが独立する68年には時代に合わせイメチェンを図る。ファンク・サウンドにのってベトナム戦争や黒人の貧困など社会問題を歌った「サイケデリック・ソウル」路線は再び大当たり、彼らの驚異的なヒットメーカーぶりはとどまるところを知らなかった。
【ムッシュから一言】
黒人アーティストの音楽を直接というより白人を通して聞くことが多く、つまりブルーアイドソウルが好きだったのです。
 
激しいメンバー交代があっても、ブランドは健在
70年代に入ってもヒットを生み続けたテンプスだったが、ディスコの時代になると主要メンバーを一新、若い世代が中心のグループに生まれ変わっていった。同時に音楽シーンの第一線から退くことになるが、グループは今なお健在。時折発表されるニューアルバムは現在もヒットチャートに登場している。
【ムッシュから一言】
そんな訳で私にはテンプテイションズを語る資格がありません。だけど「マイ・ガール」という名曲があるという事だけで十分にテンプテイションズをリスペクトしていますし、それでいいと思います。

TOTO

スタジオからスーパーバンド結成へ
70年代後半〜80年代はニューウェイヴやパンクなどの既成概念を変えるスタイルが登場した時期であると同時に、良い意味でも悪い意味でもメインストリームのロック・ポップスが更にその商業性と楽曲の洗練度合を高めた時期でもある。後者の象徴的な存在がTOTO。アレンジャーを父に持つデヴィッド・ペイチ(キーボード)とミュージシャンの息子達スティーヴ(キーボード)とジェフ(ドラムス)のポーカロ兄弟、そして名うてのセッション・ギタリストのスティーヴ・ルカサーをコアメンバーとする6人組のTOTO結成のきっかけはAORの代名詞としてベスト・セラーとなったボズ・スキャッグス『シルク・ディグリーズ』(1977)にペイチ、ジェフ・ポーカロそしてTOTOのベーシストとなるデヴィッド・ハンゲイトが曲と演奏で参加したこと。これで手応えを掴んだ彼らは1978年にいよいよTOTO結成、デビュー作『宇宙の騎士』(1978)を世に問うた。
【ムッシュから一言】
1950年代から60年代にウエスト・コースト系ジャズマン最高のアレンジャーはマーティ・ペイチです。
その息子がデヴィッド・ペイチだったので私は当然TOTOの音楽を聴くようになりました。
 
成功、スランプ、そして再び頂点へ
『宇宙の騎士』はその完璧な演奏力と商業性の高い楽曲で見事に全米アルバムチャートのトップ10に、そしてシングル「ホールド・ザ・ライン」も全米5位の大ヒットとなりいきなりTOTOはスーパーバンドとして脚光を浴びた。しかし続く『ハイドラ』(1979)『ターン・バック』(1981)は産業ロックとしての質の高さで特に日本のフュージョン系バンド野郎達に絶大の人気を勝ち得たものの、アメリカでの人気は今いちで停滞期に。しかしそんなスランプを吹き飛ばしたのは満を持して発表した『TOTO IV〜聖なる剣』(1982)。初の全米No.1ヒット「アフリカ」を始め「ロザーナ」(2位)「ホールド・ユー・バック」(10位)とヒットを連発、同年のグラミー賞の最優秀アルバム賞、レコード・オブ・ジ・イヤー等3部門を獲得して正に80年代産業ロックを代表するバンドとしての頂点を極めたのだった。
【ムッシュから一言】
このデヴィッド、そしてスティーヴとジェフのポーカロ兄弟、ギターがスティーブ・ルカサー、ディヴィット。
憧れのスタジオミュージシャン集合体がスタジアムロックバンドなっちゃうのがアメリカです。
 
去るメンバーあれば来るメンバーあり
『聖なる剣』の直後デヴィッド・ハンゲイトが脱退しポーカロ3兄弟の末弟マイクが加入したが、次作作成中にオリジナルメボーカルのボビー・キンボールも脱退、代わるファージー・フレデリクセンをボーカルに迎えた『アイソレーション』(1984)は商業的にも内容的にも凡庸な出来でファンの失望を誘った。更にボーカルをジョセフ・ウィリアムスに代えた『ファーレンハイト』(1986)は「アイル・ビー・オーバー・ユー」のヒットで僅かに存在感を見せたものの次の『ザ・セブンス・ワン〜第7の険〜』(1988)も従来の路線をなぞるのみの平凡な出来と結果に。この時点でスティーヴ・ポーカロは既に脱退、ボーカルのウィリアッムスもジャン・ミシェル・バイロンに交替と、人の動きが激しくなった。そのバイロンもベスト盤参加のみで脱退。バンドの行方が見えなくなる中、何とジェフ・ポーカロが心不全で急逝(1992)。バンドは崩壊の危機に直面したのだった。
【ムッシュから一言】
「99」という曲を聴くとなんとなく胸キュンになります。僕の父が亡くなる頃カーラジオから良く聴こえてきました。
ヒットしてたんですね!
 
TOTOよ、どこへ?
古巣コロンビアと袂を分かち、今やルカサーをボーカルに擁するTOTOは度重なるメンバーチェンジによるバンド・アイデンティティの希薄化とフォーミュラ的な産業ロック的アプローチを脱することなく『キングダム・オブ・デザイア〜欲望の王国〜』(1993)『タンブ』(1995)とアルバムを重ねたがいずれも不作。『マインドフィールズ』(1999)では15年ぶりにボビー・キンボール復帰、カバーアルバム『スルー・ザ・ルッキング・グラス』(2002)等地道にアルバムを出すものの往年の栄光はない状態。それでも辛抱強くTOTOを支持する日本のファンにとっての嬉しい驚きは最新作の『フォーリング・イン・ビトウィーン』(2006)。初のアフリカン・アメリカン・メンバーのグレッグ・フィリンゲインズを加え、従来とはひと味違う実に久しぶりの力強い作品で復活したTOTOは今年も全米そしてヨーロッパをツアーの予定。彼らの復活はあるのだろうか。
【ムッシュから一言】
なんといってもジェフ・ポーカロが亡くなった時はガックリ来ました。
あれからあまり聴かなくなってます。でもグレッグが加入したらしいのでTOTOの今後の行方を探りたいと思います。

トッド・ラングレン

宅録ポップスター、トッド登場
フィラデルフィア郊外の一地方都市で育った少年トッドは幼少の頃からギターに親しむ一方、60年代当時全盛のモータウンやリバプール・サウンドに夢中になる普通の少年だった。そんなトッドがポップ界に登場したのはザ・ナズで発表、後にソロで大ヒットする名曲「ハロー・イッツ・ミー」(1968)。ナズを脱退したトッドはソロ作『ラント』 (1970) からのヒット「ウィ・ガッタ・ゲット・ユー・ア・ウーマン」に続き完全宅録で作り上げた名作『サムシング/エニシング(ハロー・イッツ・ミー)』 (1972) からの「瞳の中の愛」「ハロー・イッツ・ミー」の大ヒットで個性的ポップメイカーとしての地位を確保したが、ポップ・スターへの道は彼の選ぶところではなく、以降コマーシャリズムを気にしない自由な活動に没入していった。
【ムッシュから一言】
トッド・ラングレンというミュージシャンを知ったのは1968年「Nazz」というTHE Nazzのファーストアルバムだった。僕はこのアルバムからたいしたインパクトを感じられなかったがTHE Nazzを脱退してソロになり「ラント」と名乗り宅録でシンガーソングライター系のねじれポップスを作り出すようになってからはただものではないと思い出したのでありました。
 
売れっ子プロデューサーの世界そしてユートピア誕生
彼の才能はプロデュースでも遺憾なく発揮された。早くからバッドフィンガー等を手がけた彼がその真価を発揮したのは70年代を代表するロック・バンド、グランド・ファンク・レイルロードの『アメリカン・バンド』(1973)と『輝くグランド・ファンク』(1974)での仕事。更に全米で1、000万枚を売ったミート・ローフの『地獄のロックライダー』(1977)でその存在を決定付けた。一方1974年には実験的な音作り追求のためにパワー・ポップ・バンド、ユートピアを結成。70年代ほぼ年1作ペースでプログレチックなポップ・ロック満載のアルバムを次々に発表。同時にソロでも『魔法使いは真実のスター』(1973)『ミンク・ホロウの世捨て人』(1978)等のレベル高い作品を作っていたのだから凄い。
【ムッシュから一言】
1970年代はエンジニア/プロデューサーとしてのキャリアが始動。ザ・バンドの名作「ステージフライト」、バッド・フィンガーの3作目「ストレート・アップ」等でプロデューサーとしての定評を確立したのちこの経験をいかして存在感をポップにしたのが2枚組の名盤「サムシング/エニシング(ハローイッツ・ミー)」。このままゆけば彼もポップスーパースターになるところなのだが彼のコマーシャリズムを意に介さないスタイルは一気にカルトの世界に突入していくのです。だから好きなんだ。
 
ニューメディアへの傾倒
ポップの鬼才として名高いトッドは同時に音楽以外のメディアの表現可能性に早くから着目していたことでもユニーク。1979年にはMTVに先立つこと2年、自らのビデオ製作会社を設立したのを皮切りにコンピューター・ソフトと音楽を融合させた作品を手がけたり、インターネットでの音楽製作の可能性を追求したり等、80年代はテクノロジーに傾倒する一方、『ヒーリング(トッドの音楽療法)』(1981)『トッドのモダンポップ黄金狂時代』(1982)『ア・カペラ』(1985)などの宅録ソロ作やユートピアとしての 初ヒット「セット・ミー・フリー」を含む『アドベンチャーズ・イン・ユートピア』(1980)、ビートルズ・パロディの『ミート・ザ・ユートピア』(1980)などユートピア作品も精力的にリリースしていた。
【ムッシュから一言】
方向性を更に実験的な方向に伸ばすため活動の場として旗揚げしたというバンド「トッド・ラングレン・ユートピア」は最高でした。とっても正しいB級というか2流というか分かる奴には分かるんだ。是非、聞いて!
 
多彩な活動の90年代以降
1986年にXTC『スカイラーキング』でプロデュース活動の頂点を極めたトッドはユートピアを解散。ライヴ観客を前に一発録りというおよそトッドらしくない『セカンド・ウィンド』(1991)を最後にメジャーとの関係を絶ったトッドはTRーIなる変名でインタラクティヴCDメディアを使った作品を発表するも不評。サントラの仕事やラウンジ風のセルフ・カバー作など新作活動が振るわない一方、自分のサイトでオンラインの新作発表を行ったり、自伝を書いたり等と90年代の活動は多彩ながらやや散漫。最近日本のレーベルから蔵出し音源を中心に「トッド・アーカイヴ・シリーズ」全9作がリリースされるなど再評価気運が高まっている中、彼の気合いの入った新作が期待されるところ。
【ムッシュから一言】
しかし彼はグランド・ファンク・レイルロード、ニューヨーク・ドールズ、ホール・アンド・オーツ、ミート・ローフといった具合にとても幅広いアーティストを手掛けその殆どをヒット作に仕上げていながら大プロデューサーというイメージよりも1人のねじれ系ミュージシャンという感じにとても彼の音楽に対するディープな思いを感じます。 P.S.元ウオッカコリンズの仲間であったアランメリルの話によるとエアロ・スミスのスティーブン・タイラーに女の赤ちゃんが出来た時、彼はいろいろ訳ありだったので友人のトッド・ラングレンにずっと預かってもらっていたらしい。だから彼女が大きくなってからスティーブンの娘だと知らされたのだとさ。それが女優のリブ・タイラーという事です。トッド・ラングレンにはベビーシッターも出来ます。(笑)

ドナ・サマー

公演先のドイツでレコード・デビュー、クラブシーンで話題となる
ボストン出身のドナ・サマーはミュージカル公演で訪れたドイツに腰を落ち着け、レコーディング・アーティストとして活動を開始。1974年に録音した「愛の誘惑」はヨーロッパ大陸からアメリカにも飛び火する大ヒットを記録。盛り上がりを見せ始めたディスコ・シーンに登場した
【ムッシュから一言】
ドナ・サマーというと典型的な黒人シンガーという印象ですが、実は「ヘアー」に参加していたあたりが面白いですねぇ。
 
ヨーロッパからアメリカに逆上陸、ディスコ・ブームに君臨する
活動の場をヨーロッパからアメリカに移した彼女は「アイ・フィール・ラヴ」が再び大ヒット、以降最高潮となるディスコ・ブームの「女王」としてヒットチャートに君臨した。発表するシングルやアルバムはグラミー賞を獲得、この時代随一の人気を誇る存在にまで登りつめた。
【ムッシュから一言】
ドナ“サマー”がどんな夏だったのか?と聞かれたら彼女の曲がガンガンかかってた 1979年夏の六本木ディスコを思い出します。バブリーでデカダンスな夜!凄かったですねぇ。
 
R&Bシーンで奮闘、しかしやがて陰りが
ディスコの時代が終焉を迎えた80年代、彼女は所属レーベルを変え、ディスコにとらわれない幅広いR&B作品を発表するようになった。
しかしヒップホップをはじめとする新世代の音楽には太刀打ちできず、チャート成績は徐々に下降。暫し低迷期を迎える。
【ムッシュから一言】
ドナも80年代に入りいろいろ大変だったみたいだけど、そんな中で「彼女は金のために懸命に働く」が売れたりして。世の中本当に面白いですねぇ。
 
度重なる再評価の末成熟したエンターテイナーへ
音楽の流行が一巡した1980年代後半以降、ドナ・サマーは再びスポットを浴びる機会が増えた。ノスタルジックなディスコの再評価が後押ししたばかりでなく、彼女自身も大人のマーケットに対応し得るシンガーに成長し、今日ではアダルト・コンテンポラリーを中心に活躍を続けている。
【ムッシュから一言】
1960年代のサーフィン、ツイスト etc、1980年代のディスコ、ユーロビート etc、2000年からのヒップホップ etc、ダンス・ミュージックは「20年周期」かな?ドナ・サマーは現在の若者にも結構リスペクトされていると思います。「ダンス・ミュージック フォーエバー」ですね!

トム・ペティ

フロリダのヤンチャ坊主、ロック界に殴りこみ
1950年フロリダ州に生まれたトム・ペティは、10歳のときに映画撮影のため地元にやってきたエルヴィス・プレスリーの姿を見てR&Rの虜となり、その後ビートルズの登場でバンド結成を決意。高校を卒業した1968年に地元の友人とグループを組み、プロのミュージシャンとして活動を開始した。約5年に亘る地元での活動の後、レコード契約を目指してロサンゼルスに進出した彼らは1974年に念願のレコードデビューのチャンスを得るが、契約のもつれから飼い殺しの憂き目に遭いバンドは解散。しかしペティは諦めることなくアルバム制作を続行、ようやくリリースにこぎつけたのは1976年のことだった。
【ムッシュから一言】
トム・ペティって僕より10歳年下なんだけど、彼が白人のR&Rみたいなのに目覚めたのが1960年か。僕もプレスリーを見て初めてR&Rというものを知ったんだけども、ほぼ同時期だな。それで高校、地元の連中とグループを組んだのが1968年。っていうと僕がスパイダースをやっていた頃なんだけど、多分いわゆるガレージバンドだったんだと思う。それからロサンゼルスに出てきて、よくあることだけどレコードデビューのチャンスを得るが、契約のもつれで飼い殺し状態に。こういう時期があるとすごく強くなるんだよね。それで2年くらいしてやっとレコードをリリースと。そうなると今度はツアーメンバーが必要になってくるから、改めて高校時代の仲間たちを呼び戻すことになるという。
 
ヒットチャートを駆け抜けろ
デビューに際し、ペティは一旦解散したバンドを旧友を中心に再編し「ザ・ハートブレイカーズ」として甦らせ、精力的にライブ活動を行った。当初60年代の音楽の強い影響下にあった彼らのサウンドは「時代遅れ」と見なされ、メディアの注目はもっと新しいタイプのバンドに注がれたが、ライブの評判が次第に彼らの人気を高め、80年代に入るとアルバムは百万枚を超えるセールスを記録するようになった。しかし成功の規模が拡大するにつれ周囲からのプレッシャーも増し、レコード会社の営業方針など「音楽の虫」ペティにとって煩わしい問題が噴出。メンバー達との間にも緊張感が漂うようになり、成功者の苦悩を初めて味わうことになる。
【ムッシュから一言】
結構60年代っぽい音楽をやっていたんだね。ビートルズとかにも影響を受けてたんだろうけど・・ああそうか、バーズですか。音楽はちょっと流行遅れみたいにいわれたようだけど、彼って「音楽の虫」みたいな人だから、自分の音楽に対してはすごく、絶対譲らない、みたいなタイプだったんじゃないかな。で、やっぱりライブバンドなんだね。ライブの評判が彼らの人気を高めて、アルバムがいっぱい売れるようになると。そう、最終的にバンドはライブなんです。あと、彼が好きだったアーティストって別項に挙がっているのを見ると、全く僕と一緒だね。この後ディランと関係が深まっていく訳だけど、ディランって本当に面白い人を見出してくるんだよ。この人もそう。
 
トラヴェリング・ウィルベリーズ結成
80年代半ばになるとペティの作風はより内省的なものとなり、バンドと離れて一人でのアルバム制作にも挑戦するが、結局確認できたのは「仲間なしには音楽は作れない」という事実。再びハバンドの手を借りて完成した「Southern Accents」はペティのより円熟した世界を示した傑作となった。その2年後、彼にとって憧れの存在だったボブ・ディランとの共演の機会に恵まれ、そこで意気投合した二人とハートプレイカーズはライブツアーに乗り出すことを決意、公演は各地で絶賛を持って迎えられ、更に二人の関係はスーパーバンド、トラヴェリング・ウィルベリーズの結成へと発展していくこととなる。
【ムッシュから一言】
トム・ペティって根っからバンドサウンドの人だと思うから、一人でやってもつまらないんじゃないかな。僕は日本でも海外でもバンドからソロになったりする人を色々見てるけど、彼はバンドの人って感じがする。で、ディランだけども、彼はダイアー・ストレイツのマーク・ノップラーとか、デヴィッド・ボウイのところにいたミック・ロンソンとか、とにかく面白い人とやる人だったの。なんかものすごく違う角度からミュージシャンを見てたりして。ディランが一緒にやりたがるミュージシャンてみんないいんだよね。ちょっとアメリカ南部というか内陸部っぽい音楽性を持ってて。ディランもバンド演奏が好きな人なんだろうね、だからハートブレイカーズにディランが加わったときのような、個性と個性のぶつかりあいみたいなものを求めるという。
 
ロックシーンのトップに
トラヴェリング・ウィルベリーズの活動を通じて知り合ったジェフ・リンをプロデューサーに迎え、89年に制作されたアルバム「Full Moon Fever」は、300万枚を売り上げる大ヒット。同アルバムからはヒット曲も次々と生まれ、90年代に入り新しいタイプのロックバンドが次々と登場する中、苦戦するベテラン勢を尻目に各音楽賞を独占してついにロック界の第一人者となった。更に93年にリリースされた彼にとって初のベスト盤は800万枚を超える売上を記録。もはやロック史の伝説的存在にまでなったペティは、現在もハートブレイカーズとともにアルバム制作、ライブ活動を精力的に続けている。
【ムッシュから一言】
一人だけであれこれやっていると自分の特徴のある音出すのって限られてくるんだけど、バンドとやって四六時中一緒にいたりすると独特の音が出てくるよね。この人達は何百万枚もレコードを売っているのに、アーシーというか、地に足がついた感じというか、今でも下北沢のライブハウスでやってそうないい感じがある。最近のバンドってでっかいところで見せる、っていう作り上げられた「カリスマ志向」みたいなものを感じるんだけど、彼らはもっと気楽に、自然体でやっている感じ。僕の友達のアメリカ人でもトム・ペティ、好きな奴多いんですよ。すごく。どこにでもいそうなバンドなんだけどね。キャッチーな曲作るし、詞を読めばまた面白そうだし。リラックスして聴けるんだよね。