Monsieur Voice / ムッシュ@Rock 

1999〜2017 携帯サイト"ARTIST NUDE"より

【ラ】


 

R.E.M

レコード店でバンド誕生
80年代初頭アメリカにはポスト・パンクの虚脱した雰囲気が漂っていたが、グランジに端を発し、90年代に全米を席巻するオルタナティブ・ロック台頭にはまだ間がある、そんな混沌とした時期。そのオルタナティブ・ロックの先駆者・オピニオンリーダーであるバンド、R.E.M. が生まれたのは1980年、アメリカ南部ジョージア州アセンズのレコード屋だった。当時店員のピーターと常連客のマイケルが音楽の趣味で意気投合、ジョージア大学の学生だったマイクとビルの二人のリズム・セクションを加えてこの歴史的なバンドは誕生した。廃屋の教会で行われた友人のパーティでの記念すべき初ライウを敢行した彼らが出世作となるシングル「ラジオ・フリー・ヨーロッパ」をインディーズでリリース、当時黎明期のカレッジ・ロック・シーンで評判となるにはそんなに時間はかからなかった。
【ムッシュから一言】
80年代っていうのはハードロック、ヘビーメタル系の音楽が不運な時代っていうか寒い時代っていうか…。僕も80年代はフュージョン系を中心に聴いてましたね。でもそういう時っていうのは、地方の小さなクラブやライブハウスからスタートしたアーティストがだんだん育ってくる時期でもあってね、過去を振り返ってみても、いつも何かのジャンルの音楽が不遇な時、どっかでそういうバンドが一生懸命力をためこんでたりする。それがいつもニューカマーであったりするわけ。この当時もアメリカのロック系がちょっと静かになってた時代ですから、R.E.Mなんかが地方の小さなとこから力を蓄えて、何年後かにメジャーデビューするためにいろんな活動を行なってて、助走からメジャーに駆け上った時代だったのかなっていう気がしますね。
 
新しいロックの旗手に
「ラジオ・フリー・ヨーロッパ」がウィレッジ・ウォイス誌の1981年ベスト・インディ・シングルに選ばれ評価を得た彼らはI RSレーベルと契約、82年EP『クロニック・タウン』で鮮烈なデビューを果たした。続いて83年リリースのデビュー・フル・アルバム『マーマー』はそのシンプルなギター・ロック・サウンドとマイケルの不思議なリリックとくぐもったボーカルの醸し出す魅力で評論家から絶賛され、同年のローリング・ストーン誌の年間ベスト・アルバム及び最優秀新人アーティストに選ばれ、新しいロックの流れをリードするバンドとしての地位を確立した。84年には一転して原点のガレージ・ロック的サウンドの『レコニング(夢の肖像)』をリリース、同時に活発なツアー活動で支持層を拡大する一方、カレッジ・ラジオへの支持を明確にするなど、後に政治的活動にも参加するR.E.M.のスタンスがこの頃から見られるようになってきた。
【ムッシュから一言】
俺この頃、マイケル・フランクスとかケニー・ランキンとかジェームズ・テーラーとか、もっとソフトなとこに興味持ってて、残念ながらR.E.Mとかの方には目が向いてなかったな。アメリカでも学生が支持したバンドだったからね、R.E.Mは。あるいはプロモーションが上手だったのかもしれないね、学生に対しての。まあ日本で言うと、学園祭の女王になっちゃおうっていうような感じかもしれない。今と比べるとこの頃の方が学生が実権持ってたんだよね、次に何が流行るかの。今学生は持ってないじゃない。メディアが持ってたりして。だから、やっぱし学生って言うのは若いし感性が鋭いから、より色合いの違ったものを探し出してくるっていう、そういった意味でこのバンドが選ばれたってことは、すごいチャーミングなバンドだったんじゃないかなっていうふうに思うけどね。
 
グラミー賞受賞
3作目『フェーブルズ・オブ・ザ・リコンストラクション』(1985年)を経て翌年の『ライフス・リッチ・ペイジェント』ではそれまでと異なりストレートなビートと社会性の高いメッセージを強調、いつになく明確なマイケルのボーカルからは彼らの新しいスタンスが感じられた。アウトテイク集『デッド・レター・オフィス』を挟んで87年リリースの『ドキュメント』も同様の路線ながら初の全米トップ10ヒット「ザ・ワン・アイ・ラウ」を生むなど、商業的ブレイクと同時に創作面でも重要な作品となった。彼らは更にメジャーのワーナーと契約、2曲目のトップ10ヒット「スタンド」を含む『グリーン』(1988)を経て90年代に突入、新しいR.E.M.の誕生を告げる『アウト・オブ・タイム』(1991)は英米でNo.1 、彼ら最大のヒット「ルージング・マイ・レリジョン」など華やかなサウンドで商業的にも大成功、グラミー賞などの受賞で彼らのキャリア最高の時期をもたらした。
【ムッシュから一言】
当時俺はスタジオミュージシャンばっかしのバンドでライブとかやってて、86年にサンフランシスコにレコーディングに行ったけど、R.E.Mとかこっち系統の音楽はアンダーグラウンドでは脈々とあったと思うんだけど、オーバーグラウンドではあんまり元気がなかった時代だったかな。R.E.Mファンの人が聞いたら笑うかもしれないけど、少なくとも僕は今まで目立つバンドのミュージシャンの名前はほとんど覚えてたんだけど、R.E.Mはほとんど名前知らないってことは、音楽の聴き方が変わってきたのかなって気がする。メンバーうんぬんじゃなくて、そのバンド全体のサウンドでポップソングのように聴くっていうのかな。だれだれがドラム叩いて、だれだれがギター弾いてるっていう聴き方じゃないね。まあだから、新しいウェイブだったんだろうな、R.E.Mは。
 
ビル脱退でトリオに
8作目の『オートマティック・フォー・ピープル』(1992)は傑作の呼び声高いものの一転内省的に死を見つめる静かな作風となり、環境団体支援活動やクリントン大統領等民主党支援など政治的な活動もこの頃から盛んになった。一転してノイジーなロックを聴かせる『モンスター』(1994)からマイケルはスキンヘッドとなり、メンバーの相次ぐ病気に妨げられながらも6年ぶりのツアーを成功させるが、シンプルで深い広がりを見せる『ニュー・アドベンチャーズ・イン・ハイファイ』(1996) 発表後、ビルの脱退というグループ最大の事件を迎える。しかしトリオとなったR.E.M.は 98年美しく寂しげでいてオプティミスティックな佳作『アップ』を発表、健在ぶりを示した。5月には12作目をリリース予定の彼らこそ今のアメリカ・ロック界のアイコン的存在と言えるだろう。
【ムッシュから一言】
僕、環境団体支援コンサートとかさ、政治関連活動云々とかって、わらにもすがるみたいな感じであまり好きじゃないのね。そういうこと必要ないと思うんだよね、ロックバンドっていうのは。馬鹿でも軽くてもいいからロッカーは永遠にロッカーでいてほしいっていうのはあって、政治がらみになったりね、そういう何とかがらみになってくると、こいつら寒いんだろうなーと思うんだよね。僕は多分音楽性以前に、そういう彼らの動き方なんかを聞いたときに聴く気にならなくなっちゃったのかなという気がするな。すぐね、社会性みたいなものと結びつきたくなるような感じなんだよね。ローリング・ストーンズなんかそれやらないから俺好きなんだよね。

ローリング・ストーンズ

悪ガキロッカー、ストーンズ登場
1950年代のロンドンはブルースとR&Bに魅了された若手ミュージシャンが跋扈した時代。
そこから現れたのがボーカルのミック・ジャガーとキース・リチャード、ブライアン・ジョーンズの2人のギタリストを擁するローリング・ストーンズだった。1962年7月にロンドンのマーキーでのライヴを皮切りにビル・ワイマンとチャーリー・ワッツのリズム隊を加えた5人はデッカと契約、チャック・ベリーのカバー「カモン」のヒットに続き、1964年『ザ・ローリング・ストーンズ』で英米でブレイク、バディ・ホリーのカバー「ノット・フェイド・アウェイ」で初の全英1位を獲得。
折から同時期に世界に旋風を巻き起こしたビートルズのクリーンなイメージに対し、ストーンズは不良のイメージで対抗支持を得、初のオリジナル・ヒット「テル・ミー」「タイム・イズ・オン・マイ・サイド」等を英米でヒット、初の全米ツアーも成功しあっという間にスターの座を手にした。
【ムッシュから一言】
1964年「ザ・ローリングストーンズ」を聴いてから僕は本格的にロックンロールをPLAYするためにフェンダーのジャズマスターを入手。もちろん「Route 66」と「Walkin' The Dog」をキースやブライアンのようにPLAYするために。
これが僕にとってのロックンロール元年です。
 
ブライアンの孤立と混乱の60年代
1965年「サティスファクション」の英米No.1で人気を決定付けたストーンズはマネージャーのアンドリュー・オールダムの薦めもあり、ブライアン中心のブルース・カバーの方向性からオリジナル曲中心への方向性に次第にシフト。同時に初期のリーダーシップを取ったブライアンからバンドの主導権はミックとキースに。一方エキゾチックな音楽性に走ったブライアンにより初の全曲オリジナル作『アフターマス』(1966)『ビトウィーン・ザ・バトンズ』『サタニック・マジェスティーズ』(1967)はサイケデリック・ロックの傑作となった。しかし主要メンバーがドラッグ所持で逮捕される等の事件を経て『ベガーズ・バンケット』(1968)でロックンロールへの方向性を再確認したバンドから孤立したブライアンは1969年6月に脱退を表明。ところがその1か月後にブライアンが自宅プールで溺死体で発見され、ストーンズを取り巻く状況は混乱を極めた。
【ムッシュから一言】
僕と世界中のストーンズフリークは不良になるために努力をしていたと思います。
ヘアースタイル、クルマ。、ファッション、酒、女、等々皆ストーンズになろうと頑張ってきました。
彼らのオリジナル「Tell Me」「Time is on my side」そして1965年の「Satisfaction」のヒットでストーンズの不良美学は完全に成立しました。
 
バンドの隆盛とシーンへの挑戦
新ギタリスト、ミック・テイラーと共にロンドン・ハイド・パークでのブライアン追悼ライヴで新出発を切ったストーンズはテイラーの音楽的貢献もあり『レット・イット・ブリード』(1969)『スティッキー・フィンガーズ』(1971)『メインストリートのならず者』(1972)等の名作を次々に英米のチャートトップに送り込み人気を誇った。しかし1970年ビアンカとの結婚で社交界に進出したミックとドラッグにのめり込むキースの状態を反映し、大ヒットはしたが『山羊の頭のスープ』(1973)『イッツ・オンリー・ロックンロール』(1974)は評判を呼ばず。しかしテイラーの脱退とロン・ウッドの加入、キースの1977年トロントでのヘロイン所持による逮捕等の混乱の後リリースされた『女たち』(1978)は当時のパンク、ニューウェイヴ、ディスコといった新勢力への強烈な回答として高く評価され、ストーンズはシーンにおける音楽的地位を一定取り戻したのだった。
【ムッシュから一言】
1968年「ベガーズ・バンケット」の後、ブライアン・ジョーンズは脱退。そして、死亡。
僕はブライアンの大ファンだったのでストーンズから少し引きました。代わりにミック・テイラーが入って来た時この人は違うと思ったものでした。
 
軋轢、和解、そして今
大不評の『エモーショナル・レスキュー』(1980)を経て『刺青の男』(1981)の英米NO.1で再度トップを極めたのもつかの間、ソロ活動優先、バンドはコマーシャル路線と言うミックとロックのルーツに拘わるキースの対立で 残りの80年代のストーンズの活動は惨澹たるもの。『スティール・ホイールズ』(1989)でやっと和解した二人は1993年にビル・ワイマンの脱退を経て『ブードゥー・ラウンジ』(1994)とそのツアーの大成功でグラミー賞の最優秀ロック・アルバムを初受賞するというおまけ付きでシーンに復活。その後もアンプラグド・ライブの『ストリップド』(1995)、現在最新スタジオ作の『ブリッジズ・トゥ・バビロン』(1999)等でその健在ぶりをアピール。昨年はベストアルバムの決定版『フォーティ・リックス』とそのサポート・ワールド・ツアーで世界を湧かしたストーンズ、結成40周年となる今年もその活動が期待されている。
【ムッシュから一言】
そして、フェイセスのロン・ウッドが入りビル・ワイマンが辞めて、代わりのベースにダリル・ジョーンズが入りチャーリーとダリルの完璧なリズムセクションが出来て僕は大満足。フロントがキースとロンとミックという強力なSHOWBANDになったのを先日来日した時、武道館で見ることが出来て、このバンドは後10年は続けるだろうなと元気をもらった。
Keep on Rocking!!